鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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きた。そして、震災前の夏にパリを訪れた共産主義者•福本和夫(1894~1984)によ2-2.福本和夫の危機」と表現している(注11)。すなわち、帰朝歓迎会の原稿に「私の天分といふ如きは思ふても傷々しい位のものであって、さて今後の方針はと考へますと努力して進むるより外残りませんので、こ、に観念上の嵯てつを来しました」と述べているような、自信喪失の段階が「第一の危機」である。そして、渡仏から7ヶ月後の関東大震災により、生活費の送金が一時途絶えてしまい、困窮に陥ったことを「第二の危機」とする。この危機によって、前田は留学中の行動計画を大幅に変更する必要が生じてってもたらされた思想的な影響を、「第三の危機」とみなしている。この危機は前田にとって、画家としてのアイデンテイティすら揺るがせるような、最も深刻なものであった。共産主義を研究するためにパリを訪れた福本和夫とは、後に「福本イズム」の提唱者として、日本共産党の指導的存在となる人物である。彼と前田は倉吉中学校の同級生であったことから文通を始め、やがてパリで再会してからは、1年余にわたって密接に交遊したという。福本は、法律の勉強をするという名目で留学しながら実際は共産主義の研究をしており、前田にその思想を説くことがあった。震災によって日本からの送金が途絶し、経済的な苦労を重ねていた前田にとって、福本から聞く共産主義思想が、強い現実味を帯びて受け止められたであろうことは想像に難くない。また、違和感を覚えさせるこの方向転換にも、一貫した必然性があったとする見方もある。例えば、土方定ーは、次のように述べている。「この内村鑑三による人間解放の思想は、前田寛治のパリ時代の後半に福本和夫によるマルクス主義の洗礼となっているものである」(注12)。また、小泉淳ーも次の指摘をしている。「平等への志向を徹底させる社会主義の考え方は、一面倫理的な側面を持ち、一方では当然それがキリスト教の倫理感に結びつくこともあり得たことは、例えば日本最初の社会主義政党である社会民主党で幸徳秋水とともに活動した木下尚江らそのメンバーの多くが、キリスト教主義者であったことなどを考えれば、特に不思議な話でもない」(注13)なお、この時期の前田の心境を知る上で重要な資料がある。それは、前田が留学中に書いたとされる「巴里滞在中の手記」という原稿であり、外山卯三郎がその著書で一部を紹介している(現在は紛失・注14)。以下に、その部分を再掲する。「前田のアカデミックな博統に射する反抗は、福本の現代の社會組織への反抗と似てゐた。それ等を打砕いて何者かに突き進みたいといふ欲求は、同じであった。その-554 -

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