13年(1924)8月、福本が前田より1年早く帰国したことが影響しているだろう。福2-3.福本和夫の帰国とクールベことを知りあってから、二人は共通したある感情をもつてゐることを諒解した。ただ福本は推定し得る彼の行く行くの立場から、歩調正しく極めて鮮明に進んでいく態度を得てゐるに反して、前田にはそれよりも更に一段初期のそれ等の観念に到達する前に、障碍となるキリスト教的の力が深く潜入してゐた。彼は彼の作ってゐる藝術は捨てやすいと思った。何故ならば、彼に現在作り得られる範園の藝術は、最後に色々の理論や債値やを付せられるにせよ、詮ずれば彼一個人の欲望充足の仕事に他ならなかったから!けれども彼の宗教への反抗ば怖れを伴つてゐた。(中略)前田の奉じてゐるキリスト教が、このやうに自己を没却してしまうほどの思想上には、いと幼稚とせられてゐる原始的のものであったにも拘らず、それは彼にとつては箪なる観念上の問題ではなくして、前田の力となって臨んでゐたことが、彼の怖れるところであった」この中で前田は、福本とは既成の価値観に反抗する点において共通していたことや、福本の思想と協働するためには、キリスト教信仰がもはや「障碍」となり得ることを自覚し、思想と信仰の間で揺れていたことなどを吐露している。また、中でも看過し得ないのは、共産主義思想を実現するために、「藝術を捨て」ることすら想定していたという事実である。このことについては、後年「僕は嘗時人道上のある理想を抱いておりましたので、必要のある場合は自分も藝術も土芥のように掬っても惜しくないと考えていましたが」と回想してもいる(注15)。これは、画家としての道を放棄し、活動家として生きることを指している。しかし、結果的に前田は、自分の芸術を捨てることはしなかった。それには、大正本の帰国後に何らかの送巡があったことは推測されるが、共産主義思想の同志でもあった親友がいなくなると、前田の関心は次第に絵画制作に引き戻されていった。福本は後年、前田との交友や、その芸術について忌憚のない心情を吐露した講演をしている。その講演原稿の中で福本は、自分が前田に与えた影響のうち最も強かったものは、唯物論的な思想よりも、熱心な「私の仕事振りそのもの」ではなかったかと述べている(注16)。事実、福本が帰国した後の前田は、留学の成果をまとめるべく旺盛な制作活動に取り掛かっていった。そして、福本に代わる精神的支えとして、フランスのレアリスムを代表する両家、ギュスターヴ・クールベ(1819■1877)の存在をより強く意識して-555 -
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