昭和元年(1926)4月昭和2年(1927)10月昭和3年(1928)6月昭和3年(1928)6月昭和4年(1929)3月昭和4年(1929)6月昭和4年(1929)10月300号の大作《海》によって、帝国美術院賞を受賞する。昭和5年(1930)4月鼻腔内腫瘍により死去。以上のように、前田が日本で本格的に活動したのは、5年にも満たない期間である。この間に前田は、自分が信じる絵画のあり方について、様々な媒体で語るようになる。それは、一九三0年協会が開催する講演会や単行本、定期刊行物など、様々なメデイアに亘っていた。ところで、彼は友人の鈴木千久馬宛の手紙に、「窮賞についてならば、僕は誰とでも言ひ合ふことを恐れない」と書いている(注20)。それほどまでに彼が賭けた「写実」とは、具体的には何を指しているのだろう。1929(昭和4)年に発表された「窮賓技法の要訣」という文章では、写実とは「質感」「量感」「実在感」の三要素から成るものであり、とりわけ「実在感」とは、「質感」と「量感」の双方が備わって初めて得られる「全罷的の統一感」を指すと述べている(注21)。その他にも彼は「窮宵「裸罷」の傑作と凡作との構成上の差異」「狗罷と背景の開係の要訣」等の写実に関する画論を書いているが、いずれも実作のための具体的な絵画論にとどまるものであり、主義としての「写実」を語っているものではない。また、彼の画論の中にはアングルを始めとする新古典主義のフランス人画家の名前や、「古代の古典の研究を絶とうと思うのは、狂氣の沙汰か怠惰である」という言葉も見える(注22)。実在感のある絵画を実現させるために、前田は19世紀の新古典主義まで遡ったところから歩き始めようとしていた。しかし、これらの文章を読んでいると、クールベのレアリスムは前田の作品に反映されていないのではないかという疑念がわく。事実、当時の作品を見てもその印象は免れない。また、理念としての写実にも、2種類の要素が見受けられる。それは、一つにはクールベヘの傾倒に見られるような現実主義としてのレアリスムであり、またもう一方は、実在感の顕現としてのレアリスムである。木下孝則、里見勝蔵、佐伯祐三、小島善太郎と美術団体「一九三0年協会」を結成する。《横臥裸婦》により、第8回帝展で特選を受賞する。著書『クルベエ」発行(アルス美術叢書)。「前田写実研究所」を発足させる(東京市外杉並町)。発病。帝展審査員に推薦される。-557 -
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