鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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後者について物語るものに、「一九三0年協会の設立」というタイトルで書かれた文章がある。これは、会の設立に寄せながら、前田が自分の絵画観を率直に吐露したエッセイである。「傑作の前に立つ時は先づ「そこに居るもの」を見るの動きに先立つー一それは亦あらゆる傑作の持つ畳の要素「『裸の女が居る様だね』とマネのオリンピヤを見て木下は云ふ。I『舟會だと思う前に人間が居ると思ふのだからやり切れない』と感嘆する」(注23)。また、画友である中野和高は、フォンテーヌブロー派の画家、ジャン・クーザン(父・1490頃〜1560頃)の作品《エヴァ・プリマ・パンドラ》の前で、留学中の前田が「こんな絵を一枚描いて来いよ」と言ったという話を伝えている(注24)。マニエリスム様式の強いこの作品に惹かれていたという点に、アングルを例に写実を説くことの多かった前田の意外な一面と、彼の目指した「実在感」の深さを伺うことができる。ところで、前田が入院中に書いた日記が、『病中日記』として残されている。その中に、次の一文がある。「窮賓!それには異常な意識の統ーカと強靭な体力を要する」(注25)前田にとって写実とは、元来自分が持ち合わせている感覚的・詩的な性質を押さえ込み、矯めたうえでようやく取り組めるものだったのではないだろうか。かつて「絵は詩である」と考えた前田にとっては、溢れ出るイマジネーションを意志で抑え、知的な画面構成のための作業を行っていくことは、苦痛を伴う仕事だったに違いない。矛盾を抱えて描き進む苦しみを、この言葉より推察することができる。前田のレアリスムは、このように2つの要素に分裂したまま統合されることがなく、画家の死去によって道を閉ざされることになった。33歳の、早すぎる死だった。まとめ以上、前田寛治の絵画観の推移について、彼の言葉を主な資料としながらアウトラインをなぞってきた。作家の言葉をそのまま信じることは時として危険であるが、前田のように制作の前に先ず思想ありきというタイプの画家については、有効な方法の一つであるように思われる。このように彼の思考を辿ることによって我々は、前田の独自性と、当時の時代相を知ることができた。前田の歩みは、日本の「近代」を生きた一人の画家がどのように西洋美術と出会い、対峙し、それを自分の問題としてどう咀噌していったかを示す、ひとつのテストケーそれは賓に観念的諸事項土壌/リアリテー」-558 -

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