鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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注(1) 富山秀男「序文前田寛治の遺したこと」『前田寛治作品集』美術出版社、1996年、pp.5 -6。(2) 今泉篤男『前田寛治』アトリヱ社、1941年、p.8。1910年代の多くの画家や画学生の典型的なものだった。キリスト教の影響もその延長スであるように思われる。画家としての前田の出発点は、白樺的な絵画観に強く影響されているという点で、上にあったと考えられるが、1920年代に留学すると、観念的な絵画観に修正を加えるようになる。それは先にも少し紹介した、帰国歓迎会の挨拶の言葉に端的に表現されている。「西洋の傑作と称せられますものは、真に労苦して考へ考へして仕上げたものが大部分でありまして、嘗て考へてゐた様に慾望の奔出にまかせて無我のうちに作られたものとか、単に余興や遊戯的の気持で終始してゐるものは少くあります」「近世の個性中心の最も偉大な者と思はれますセザンヌの絵を見ましても、単に特殊な自我を主張するのではなくて、充分リヤリズムの法則を極めた上に彼固有のものに突入して行ったものであります」(注26)。この確信を得るまでに、パリ留学は2つの大きな転機を前田にもたらしている。すなわち、日本で得た絵画観の修正とキリスト教の棄教という、ほとんど信念となっていたものを根底から覆される体験である。それは、前田にとっては二重の自分殺しのような痛切な体験だったに違いない。しかし、その結果前田は、西洋絵画に見られる合理的な造形思考を認識するとともに、写実(実在感)という概念を発見することになる。彼の写実観は、整合性の取れないまま死によって断絶されてしまったが、それは西洋美術の徹底的な咀哨をベースにしようとしていた点において特筆される。前田の写実論は、日本人画家の課題として理解され、共有されるためにはあまりにも未成熟であったと言っていい。しかし、彼が長生して論を深めていれば、それは、主情的な表現に流れる日本の洋画界に対して楔を打つものとなっていた可能性は高い。今泉篤男が昭和40年(1965)の文章に書いている「豊家前田寛治の日本の近代稲會書史上に果した役割は、黒田清輝がもたらした折衷的印象派の作風に風靡された日本の油霊が、その後の多くの畳家たちが企てたようなヨーロッパにおこった革新的稲會霊運動であるフォーヴィスムや立證派の思考や手法を踏襲することによってではなく、遡って西欧の油斎會の古典に一歩立ち帰って出直そうとした点である。しかもそれは後ろ向きの姿勢においてではなかった」(注27)という指摘は、今なお有効であるといえるだろう。-559 -

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