鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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〕! /一九二四、F」という書き込みのある素描がある。(3) 瀧悌三『前田寛治』(前掲)p.61。(6) 個人蔵。(7) 内村鑑三の自然観、宗教観については内村祐史『わが歩みし精神医学の道』みすず書房、1968(8) 写真家・野島康三が経営していた兜屋甕堂で開催された展覧会(9月28日〜10月6日)。審査1999年、pp.136-141。外山卯三郎『前田寛治研究』建設社、1949年、p.21。瀧悌三『前田寛治』日動出版部、1977年、p.59。(4) 今泉篤男「あとがき」『窮賓の要件』中央公論美術出版、1966年、p.210。(5) 「風景画家コロオ」『蓋花全集第三巻j新潮社、1929年参照。本文中には、「画家をして高潔ならしめよ。彼をして六塵の欲に誘はれず、超然として専心一意其の向ふ所に向はしめよ。彼が心をして媚嫉不平より自由ならしめ、彼をして世間の好悪に淡からしめ、単に美と真とに走らしめよ」など、画家の望むべき人格について言及する部分が多い。年、pp.387-389を参照。鑑三の実子である内村祐史は、「私はまた鑑三の門弟たちの中にあまり見られない特色として、彼の自然科学的趣味と、天然に対する限りない憧憬の心とを挙げたい。これは彼が札幌農学校で自然科学(水産学)を修めたことにもよるが、また天成のものでもあった。そしてこれが彼の宗教を、乾燥した律法的なものよりも、より純朴なものとし、何びとの心にも訴えるものとしたのではあるまいか。」「この途方もなく強い自然への感動、これを見ずして鑑三を正しく理解することはできない。そして彼の感嘆の声の通りに、彼はここに神を見、また造物主の偉大さに触れたのであって、このことは、天然が彼の世界観と宗教観とに密接につながっていることの最も明らかな証である」と述べている。には安井曾太郎、梅原龍三郎、斎藤与里があたった。兜屋は1920年に閉鎖されたものの、フュウザン会、二科会、創土社等、多岐にわたる作家の作品を展示する貴重なギャラリーであった。前田が出品した展覧会の直前(9月3■25日)には関根正二遺作展覧会を開催し、兜屋は展覧会カタログ「信仰の悲しみ」を発行している。また、同年の11月11日〜30日まで、村山愧多遺作展を開催している。美校同級生の発言内容については、瀧悌三の前掲書pp.87-88参照。(9) 鳥取県立博物館所蔵のデッサン。(10) 個人蔵。外山卯三郎と瀧悌三の前掲書に抄録あり。(11) 小泉淳一「前田寛治と「労働」のテーマ」『前田寛治の芸術展一詩情と造形』愛知県美術館、(12) 土方定一「前田寛治の世界」『没後50年記念前田寛治展』日本経済新聞社、1979年。(13) 小泉淳一「前田寛治と「労働」のテーマ」(前掲)p.139。(14) 外山卯三郎『前田寛治研究』(前掲)pp.219-222。(15)前田寛治「悲しき人小島善太郎君」「寓貿の要件』(前掲)p.180。(16) 講演「前田寛治の人と芸術」(1954年10月23日、東京国立近代美術館)草稿複写(鳥取県立博物館所蔵)参照。福本は続けて、「私は帰国直前、紙片に次の意味の言葉を書いて前田に示した。来た/みた/しった/サア、帰ろう/帰って戦おう後に前田は、この言葉を今でも自分はハッキリ覚えているよ。あれには非常に感動した、ということを私に語った事があります」と記している。なお、鳥取県立博物館所蔵の前田作品の中には、福本による「来た、見た、考へた/道は確(?)かだ。/帰らう、見よう、行はう/々〔我々〕は道と一つだ/オ、わが〔-560 -

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