う見解を提唱したい。隣人でフィレンツェの著名な人文主義者ジョルジョ•アントニは1473/74年に描かれたが(注4)、所有者はつぎつぎと変わった。グアスパッレ・ダで16世紀中葉に、スペイン出身でフランチェスコ・デ・メデイチの家庭教師ファビ廷画家」的な存在であった師との関係を通じて、やがてメデイチ家の人々との関係を深めてゆくようになった、そのことはよく知られている。しかしなぜ、ボッティチェッリはフィリッポ・リッピに弟子入りすることができたのであろうか。この問題は未だ解決を見ていない。ヴァザーリは「父親は彼をカルメル会のフラ・フィリッポ・リッピのもとへ連れていった。」と簡単に述べているにすぎない。そのことに就いて私はヴェスプッチ家の介在を指摘しておきたい。ボッティチェッリの隣家であるヴェスプッチ家のジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチの紹介によるものであった、といオ・ヴェスプッチは、ボッティチェッリのラテン語の家庭教師であったことが知られている(注3)。彼はボッティチェッリより10オ年長で、メデイチ家に親しく出入りしていた。このジョルジョがのちにロレンツォ・イル・マニーフィコつまり豪華王の、又従兄弟にあたるロレンツォ・デイ・ピエルフランチェスコ・デ・メデイチの家庭教師にもなっていることを考慮するなら、そうした紹介があっても決して不自然なことではないからである。したがって、紹介されたボッティチェッリが師亡きあとやがて、メデイチ家の「宮廷画家」の地位を師についで手に入れることになるのも、いわば当然の成り行きであったといっていいだろう。クワットロチェーント後半以降に制作されたメデイチ家の人々の真に迫った肖像画の源泉は、フィレンツェで作られた多くのメダルとともに、その殆どをボッティチェッリのウッフィーツィ礼拝図に求めることができる、と考えられている。この礼拝図ル・ラーマが父親の遺産を資金にフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂内に新しくつくった、自分の礼拝棠にこの板絵はおかれていた。しかしグアスパッレが「金銭上の犯罪」をおかしたためにフィレンツェから永久追放されたのちの(注5)、おそらく彼の死の直前か、遅くとも死の直後にはフエデイーニ家へ売却された。次いオ・マンドラゴーネの所有となっている。ところが、マンドラゴーネも金銭上の事件によって、1575年9月30日迄にフィレンツェ市外に退去せざるを得なくなった事情から、彼のカント・デ・チイーニに所有していた立派な館を売却する際に、この礼拝図も一緒にツァノビ・カルネゼッキに売却したか、あるいは、有名な美術品鑑識家ベルナルド・デイ・ジョヴァンニ・ヴェッキエッティに売却したかもしれない。しかしいずれにしても、ヴェッキエッティ家が一時所有していたのち所在不明となり、再発見されるのは1796年5月13日にポッジョ・インペリアーレのメデイチ家の別荘からウッ-563 -
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