鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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フィーツィ美術館に入ったときである(注6)。こうした理由からであろうが、私の調査したかぎりでは、17世紀、18世紀のいずれの書物にも、また再発見後の1836年に刊行された書物にも、この礼拝図に関する記述は著しく少ない(注7)。現在知られているかぎり、フランチェスコ・アルベルティーニ著『メモリアーレ・デイ・モルテ・スタトウエ・エ・ピットゥーレ』(1510年)およびアントニオ・ビッリ著『イル・リーブロ』(1481-1536/37年)をl嵩矢として、‘名前の伝わらぬフィレンツェの人'AnonimoFiorentino者『アノニモ・ガッデイアーノ稿本』(アノニモ・マリアベキアーノ稿本ともいう)(1542-48年)、ヴァザーリ著『美術家列伝』初版(1550年)および第二版(1568年)、ラファエッロ・ボルギーニ著『イル・リポーゾ』(1584年)、フランチェスコ・ボッキ著『フィレンツェの美』(1591年、ジョヴァンニ・チネッリの中でメデイチ家の肖像画に詳しく言及しているのは、結局ヴァザーリだけである。そこで今、肖像画に関するヴァザーリの文を再考しようと思うのだが、私は上に述べたとおり、これまで日本語やイタリア語論文などで何度も様々な角度からロレンツォ豪華王や弟ジュリアーノの肖像をはじめ、メデイチ家の肖像に就いて検証してきたので、ここでは、次の章で扱うコジモ・デ・メデイチのメダルをもつ男の肖像との関係上、コジモに関する部分のみに限定して少しく考察しようと思う。コジモの肖像に就いて‘名前の伝わらぬフィレンツェ人’は“……,chevj sono piu (注10)とさらに詳しい。ヴァザーリのコジモの肖像に就いての記述は初版、第二版とも変化はない。1464年コジモが亡くなり、およそ50年後、1511年に生まれたのがヴァザーリである。当然彼はコジモに会ったことがない。なのにヴァザーリが恰もコジモをよく知っているかのように記述しているのは、フィレンツェ共和国発行のコジモの公式記念メダル〔図3〕旧illNo.909)を見ていたからに他ならない。直径七センチ五ミリメートルのメダルは、G.F.ヒルによれば、死んだコジモがフィレンツェ政府からPaterPatriaeの称号を受けた1465年3月16日以降に作られたという(注11)。またヴァザーリはおそらく、『美術家列伝』刊行当時〈東方三博士の礼拝》を、前述したように1575年9月まで所有していたフランチェスコ・デ・メデイチの家庭教師ファビオ・マンドラゴーネの館で実際に何度も見ていたはずである(注12)。したがって、1473/74年に描かれたこの礼拝図に就いて15世紀、16世紀に言及しているものは、が1677年に改訂)にかぎられる(注8)。このように同時代の文書はあるものの、そpersone ritoratte al naturale."(注9)と短く書き、写実に基づいた多くの肖像が描かれていることを示唆した。ヴァザーリは“Etla figura di quest Re, e il proprio ritratto di Cosimo vecchio de'Medici : di quanti a'di nostri se ne ritruouano il piu viuo & piu naturale." -564 -

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