鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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2.コジモのメダルをもつ男の肖像ヴァザーリのコジモに関する記述はきわめて信憑性が高いといえる。それでは、このコジモの没後に作られたフィレンツェ共和国発行の公式記念メダルを手にもって描かれた若者と、記念メダルとの関係はどのようなものであろうか。次の章ではそのことについて詳細に検討してみようと思う。《老コジモ・デ・メデイチのメダルをもつ男の肖像》〔図2〕の制作年代は1475年前後と一般にいわれている。もしそれが正しければ、ボッティチェッリは30オ前後であり、《東方三博士の礼拝》を制作した時期にあたる。しかし私は、これから述べるように、様式上およびその他のあらゆる点からみて、1469年10月に師リッピが没した直後、つまり1470年頃と考えている。この57.5x44.0cmのそれほど大きくない板絵は制作後百数十年間も所在不明であった。最初の記録はフェルデイナンドI世の三男カルロ・デ・メデイチの所有であったというものである。周知のようにメデイチ家には二つの家系があり、カルロは老コジモの家系ではなく、老コジモの弟ロレンツォの家系(甥ピエル・フランチェスコの家系)に属する。カルロ・デ・メデイチは生涯の殆どを枢機卿としてローマに暮らし、1666年に71オで没し、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂に埋葬されている。1857年に棺が開かれ調査が行なわれたが、エメラルドやトパーズなどの数多くの装飾品が棺に入っていた記録がある(注13)。カルロの死とともに、遺品のこの板絵も1666年にウッフィーツィに入り、1704年のウッフィーツィの所蔵品目録にも記載されている(注14)。制作者は1825年にフィリソピーノ・リッピの手に帰されたが、1883年ボーデによって初めてボッティチェッリの作品ではないかと疑念が提出され(注15)、1893年ウルマン・ヘルマン、1908年ホーンによってボッティチェッリヘの帰属が認められ(注16)、以後殆どの研究者が彼への帰属を受け容れている。私もまた、この板絵のボッティチェッリ特有の略図的な風景表現、個性的な人物描写、彼だけが持つ色彩感覚への配慮などが、彼の《東方三博士の礼拝》へと至る道に通じていることに注目し、ボッティチェッリヘの帰属を主張したい。肖像主に就いて考察すると、ウッフィーツィの1704年の目録では老コジモの息子ピェロ(1410年生まれ)とされ、1825年の目録ではピコ・デッラ・ミランドーラ(1465年生まれ)になっている。しかしライトボーンをはじめ殆どの研究者は年令からこの見解を否定している(注17)。ホーンは老コジモの息子ジョヴァンニ(1421年生まれ)としているがこれも年令から否定されよう(注18)。画面からこの若者の年令は、ニ十オ代の中葉前後に見える。だが、ジュリア・カートライトも老コジモの息子ジョヴ-565 -

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