⑤ グイド・レーニの《アウローラ(曙)》のために研究者:和歌山大学教育学部専任講師商橋健一はじめにグイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642年)の〈アウローラ(曙)〉〔図l〕は、初期バロック絵画史の代表的なフレスコ圃の作例として知られる(注l)。これはローマ、クイリナーレの丘にたつ旧ボルゲーゼ宮殿、つまり現在のロスピリオージ・パッラヴィチーニ宮殿の庭園内部にある通称「アウローラのカジーノ(=集会場)」〔図2〕の天井部分に完成された。この古典的に理想化された崇高な美にたいし、批評家たちは、古代彫刻との様式的、理念的な親近性をつねに認めつづけている(注2)。いっぽう歴史家たちは、「時」の女性たちを支配するアポロンにシピオーネ・ボルゲーゼないしパウルス5世を重ね合わせ、これを同家ボルゲーゼの揺ぎない権力の表象としてとらえてきた(注3)。これらの言説をできるだけ意識しつつ、しかしわたしたちは、このささやかな論文で、むしろちがう視点を開示したい。具体的には、作品を、それが位置する場所とのかかわりから論じていく。貴族らの趣味として狩猟がもてはやされたこの時代に、都会の「カジーノ(=狩猟小屋)」としてつくられたこの建物は、ボルゲーゼ枢機卿の野外劇場の一部として機能していた。とすれば、よりよい作品理解のために、まずじっさいにこの枢機卿固辺で上演されたと思われる濱劇、とりわけ理想郷アルカデイアに住む狩猟の民の物語である当時流行したジャンルの演劇、すなわち〈牧歌劇〉を参照してみることぱ必要不可欠だろう。この絵画は、とある特定の牧歌劇の舞台美術として構想された、とかんがえられるのである。シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿と「アウローラのカジーノ」このカジーノの成立の事情についてはよく知られている(注4)。教皇パウルス5世がクイリナーレの丘を夏期の執務の場所として選択したさい、甥のシピオーネを自らの側に置くため、隣接するコンスタンティヌス帝の浴場の土地を購入し、1611年からこの遺跡のうえに庭園付き宮殿の建設を開始した。まず「ミューズたちのカジーノ」、「泉のファサード」がつぎつぎとつくられ、やや高い位置にこれらと階段で結ばれた空間を利用して、わたしたちの「アウローラのカジーノ」が建てられている。この建築は、枢機卿の命にもとづき、当時ボルゲーゼ家お抱えのカルロ・マデルノらが中心1613-1614年、ときの教皇パウルス5世の甥シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿のために、-49 -
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