鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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つまりローマ帝国の隆盛にも、それぞれ異なった文化を有していた地中海周辺の属小卜1から受けた影聾も見過ごすことは出来ないことが強調された。中でも最もローマ化が進んでいた北アフリカの属州“レプティス・マグナ”出身のセプティミウス・セウェルスがローマ皇帝になった頃のこの古代都市は最盛期を迎えていたといわれ、その繁栄振りは勿論ローマにまで及んでおり、ローマのセウェルス帝治懺においては、の財政的立場も強化され、自分の生まれ故郷への気前のよい公共投資や属州民からなる軍隊や騎士身分のものが重用されるようになっていたため、その時代の芸術についても、こうした歴史的背景のもとで、共通点とまではいかないまでも及方に強いつながりを見出すことが出来たのは当然のことであった。このセウェルス朝最初の皇帝セプティミウス・セウェルスとその家族、185年にシリアの名門祭司の家系であるオ女ユリア・ドムナとの結婚によりもうけた2人の息子カラカラとゲタについて、そして属州でありながら、その既かさを誇り、このアフリカの地から高度な文明が発信されてローマ帝国の発展にも寄与したという、日本においてはまだそれほど研究が進んでいるとはいえず文献図書も十分ではないテーマに、ムッソ教授は長年にわたる現地での追跡発掘調査や研究をふまえ、さらにユネスコの考古財保存プロジェクトのメンバーとして、あるいは専門学会誌の編集を手掛け、際学会や自らオーガナイズした国際セミナーでの他国の専門研究者との應見交換などから得た情報なども加味して、ローマとレプティス・マグナの“帝国とその属朴1”という立場を越えた2つの古代都市の結びつきと関係を、そしてそれぞれの地に残された建造物などの遺跡の比較によっても考察していくという大変興味深い講演に、今回のムッソ教授のシンポジウムヘの参加の大きな意義を確認するものであった。「セプティミウス・セウェルスと息子たち、そして妻:ローマとレプティス・マグナの間のイメージとセウェルス朝のプロパガンダ」という題目でムッソ教授が講演したのは、古代末期の入り口にさしかかった頃のセウェルス朝、つまり革新の時代であった。それ以前のアントニヌスの君主制を理想としながらも、国のあり方は根本的な変革を示していたという時代で、セプティミウス帝は軍隊の力と皇帝の権力を基盤とした結束力の強い体制を頭に描いて、軍人と騎士を厚遇し、戦争によって版図を拡大して新しく植民都市を築き、政治的信義を重んずる帝国のあり方を推進した。そこにはもちろん、属J‘卜1の威信を高めようとする意識も働いていた。また、セウェルス帝が政治権力の行使にあたって預言者や占星術に頼ったことはよく知られるところで、皇帝の妻としてユリア・ドムナを選ぶにあたってもそうであったという。息子のカラカラは父セプティミウス・セウェルス帝の戦争や凱旋の図を描かせ、あるいはコインの581

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