鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
593/598

198年にカラカラを皇帝として認め、次男のゲタにもカエサルの称号を与え、すでに図柄などにもその肖像を使用して帝国の喧伝者として賞揚した。セプティミウス帝のシンボル的なモニュメントについて、ムッソ教授はローマの凱旋門とレプティス・マグナの凱旋門を比較しながら言及している。203年に建てられたフォロ・ロマヌムの凱旋門に関しては、元老院とローマの民衆からセプティミウス・セウェルスとその息子たちに贈られたものであったが、それは195年にパルティアとの戦果とペスケンニウス・ニゲルとの戦いでの勝利を祝って建てられることに決定していたものである。ここには先の2つの戦闘での勝利のすべてが表象されているが、結局、これはセプティミウス帝が「要するに、内戦でしかなかったのだから」と凱旋を拒否したために、2人の息子カラカラとゲタに捧げられることになったという。コインに“都市ローマの再建者”として表されたセプティミウス・セウェルス帝は“アウグスタ”の尊称を与えていた妻ユリア・ドムナを“マーテル・アウグスティ・カエザリス”と呼ばせた。セウェルス帝にとっては、北メソポタミアを併合し、ローマの境界をティグリス川に固定することが出来た対パルティア戦役での勝利こそが、正統な王朝の足がかりとなったのである。ムッソ教授は、凱旋門の正面を飾る4而のパネルヘ独自な見解を加えながらも、セプティミウス・セウェルス帝が本当に望んでいたのは、正統な王朝をうち建てることであったとみる。先代のアントニヌス朝との見せかけの婚姻関係を強調したり、ストア派の哲学者ですべてのローマ皇帝の中でも最も優れた者の一人として称賛を受けてきた“マルクス・アウレリウス(在位161-180)の息子である”とか‘‘兄弟”とかと称して、また長男のカラカラをマルクスの名前に改名させたり、198年には正帝の称を与えたりした。セプティミウス・セウェルスが自分および一族の威信をさらに高めようとしていたことは事実であり、これまでは得られなかったパルティアの勝利によって自らと妻ユリア・ドムナはこの国の神になったとまでいっていた。そしてさらにこの王朝の新しいプロパガンダが202年の即位10周年の祝賀時に、つまり私的な注文で建てられたフォルム・ボアリウムの壮麗な凱旋門に見られることになる。セプティミウス・セウェルスとその家族礼賛のテーマは、ここでも繰り返され、レプティス・マグナの凱旋門においてもより強調されていくことになる。セウェルス朝の理想が完璧に実現されたとみられるのが、レプティス・マグナであり、レプティス・マグナに残る碑文にも、セウェルス帝が生まれた頃のレプティス・マグナが素晴らしい植民都市であったことなども記されており、杜会的な格からみても、市民の財産目録からもローマ帝国の中で最も傑出した属1-1・1であり、ローマ帝国へ_ 582 _

元のページ  ../index.html#593

このブックを見る