〔図9〕では、レーニの作品に同じく古代風の衣装を身にまとい草花を手にしたアウとえば、フィラルミンドの実父のアルカデイア人コリドーネは、もともとは敵国メッセーネに失踪前のフィラルミンドを次男のアルミニオと同じ「アルミニオ」という名で呼んでいたのだが、かれはその「アルミニオ」という名をもつ息子をラウリンダと結婚させるようにとのアポロンの神託をうけて、この2人の縁談を決めていた。最終的に認知されたフィラルミンドが恋人ラウリンダと幸福に結ばれえたのも、この神託に指示された「アルミニオ」の名のためだった。ただしかし、この「第四の牧歌劇」は「アウローラのカジーノ」、さらにはグイド・レーニの《アウローラ》についてかんがえるうえでじつに興味深い、他の牧歌劇にはみられないもうひとつの特徴をもつ。つまり、この劇そのものが詩的霊感の女神たるアウローラの登場によって幕を開けているのである。アポロンが真理を司り、その真理が〈時〉とともに明かされ、愛が勝利する、という『フィラルミンド』の物語は、愛する人へと向けたアウローラの語りからはじめられる。とすれば、これはアウローラが先導をつとめ太陽神アポロンが「時」の女性たちを従えつつ進むというレー二の作品にまったく同じ構造をもっとはいえないだろうか。ちなみに、1608年頃にでたとされる第4版に付されたジョヴァンニ・ルイージ・ヴァレージオの手になる挿絵ローラが最初に登場している(注11)。ボローニャの公的文学アカデミー、アッカデミア・デイ・ジェラーティ会員の作者カンペッジは、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿と深く関係していた。たとえば《アウローラ》の制作に同じ1614年、詩人は自作の悲劇『タンクレデイ』をこの枢機卿へ献呈している。さらには、『フィラルミンド』がボローニャの貴族、フェルデイナンド・リアーリオとラウラ・ペポリの結婚式の余興として初演された1608年、シピオーネ・ボルゲーゼは教皇特使として同市に滞在しているのだが、おそらくこのときかれはこの作品を鑑賞していただろう。この初演の状況については、同じアッカデミア・デイ・ジェラーティ会員チェーザレ・リナルデイの書簡に詳しく記述されている。そこでは大規模な雲の装置と山車が登場し、幕間劇として詩作された『馴されたアウローラ』というもうひとつのアウローラ主題作品がボローニャ、サン・ペトロニオ教会音楽主任ジロラモ・ジャコッビの楽曲とともに上演されて、さらに場所の華やかさを演出したという。この幕間劇は、1613年の『フィラルミンド』第5版から、そのテクストそのものに組み込まれるかたちで出版されはじめた(注12)。ますますアウローラの役割がつよくなったこの作品を、枢機卿は自らの牧歌劇の舞台にふさわしい出し物と認めえたのだろうか。じじつ、その舞台のもっとも高い位置に配されたグイド・-52 -
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