鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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1619年のことであったものの、すでに1612年には両家での婚約が成立、ボルゲーゼ家レーニの《アウローラ》には、アウローラの女神の姿がかくも愛らしく、しかも堂々と描き込まれている。あるいは、この絵がはじめから『フィラルミンド』そのもののための舞台美術として構想された可能性とて、やはり否定はできないかもしれない。おわりにところで、この『フィラルミンド』がもともとボローニャの貴族、フェルデイナンド・リアーリオとラウラ・ペポリの結婚にさいして詩作され、そして上演されていたという事実は、ここであらためて強調しておかねばならない。主人公フィラルミンドと恋人ラウリンダは明らかにこのフェルデイナンドとラウラのことを指す。そしてボルゲーゼ家はといえば、わたしたちのカジーノをふくむクイリナーレの宮殿の建設当時、やはり一族の将来にとって重要な結婚、すなわち家督相続者マルカントニオとオルシーニ家のカミッラとの結婚の計画を進めていた(注13)。じっさいの挙式こその世俗面におけるさらなる権威の確立の役目を担う子孫の誕生を願い、その最終的な成功が期待されていた。太陽神アポロンに約束された2人の愛の物語は、こうした一族の時代の気分にまさにふさわしい。この作品『フィラルミンド』がシピオーネ枢機卿らボルゲーゼ家の面々の目の前でじっさいに上演されたのだとすれば、それはマルカントニオとカミッラのためであっただろう。そしてこのとき、他の一般の鑑賞者たちは、2人の運命を支配するアポロンを、この縁談そのものを決定したボルゲーゼ家、とりわけシピオーネ枢機卿、あるいはパウルス5世に重ね合わせたにちがいない。さて、グイド・レーニの〈アウローラ》は、おそらくこのような環境のうちにつくりだされた。完成後まもなく売却されて所有者を転々とかえたこのカジーノに、ふたたび当時の文脈を取り戻させることは、たしかに難しいかもしれない。しかしいずれにせよ、作品そのものは今日にいたるまで画家の傑作として、そして初期バロック絵画史の代表作として、高く評価されつづけている。ちなみに17世紀後半、いくにんかの批評家たちは、レーニの〈アウローラ〉を、画家ないし画家の名声そのものと関連付けて理解していた。たとえばパッセリは、作品ないし女神を「まさにかれの名声そのもののアウローラ(曙)となるものであった」(注14)と、またスカラムッチャは「このうえなく光り輝くアウローラはグイドの換称として言及されている」(注15)と記している。これらはやや大袈裟な画家宣揚のレトリックであったかもしれない。ただ、『フィラルミンド』初版の挿絵〔図10〕を見ると、じっさいアウローラが「名声Jの寓意として表わされていることがわかる。もちろん、これはカジーノ内部にあるテ-53 -

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