⑥ 十五世紀東方イスラム世界の造本美術に関する総合的研究研究者:東海大学非常勤講師十五世紀の東方イスラム世界は、始めのうちこそ名実共にティームール朝の主権が確立していたが、ティームールの死(1405年)を機に各地で分離独立の機運が高まり、程なくしてティームール朝の主権は名目上のものに過ぎなくなった。その結果、実質上の支配地は僅かホラーサーン地方以東と中央アジアに限られることとなった。しかしながら、統治する地域は狭くなってもその支配者達は、常に文学や芸術を愛好し、詩人や彼らの詩集の装丁、製本にかかわる職人達の保護育成に努力を惜しまなかった。また、支配者達の中にも優れた書家或いは画家として大きな評価を受けていた者も多く、今日まで残っている作品によってその評価の正しさは証明されている。その傾向は、ティームール朝の支配に替わって勃興した黒羊朝や白羊朝の諸支配者達においても変わらず、彼らは競って各地から高禄で自らの宮廷に詩人や工匠達を招いていた。そのため、バグダードを含むイラク以東アフガニスタンから中央アジアに至る広大な地域において、各地の支配者達は宮廷工房に抱えていたエ人達の作品によって、芸術分野に対する自らの理解度や見識を競い合う状況が生じる結果となっていた。そして、この時代に制作された写本とそれらの写本に施された装丁の技術の高さは、イスラム世界の全時代を通して最も高い評価を受けている。では、以上に述べた十五世紀の東方イスラム世界における写本制作隆盛の機運には如何なる要因が存在したのかを先ず説明する。この地域において公用語として使用されていた言語はアラビア文字を用いて書き記されるペルシア語であった。しかし、様々な書体を有するアラビア文字は、本来、アラビア語で書かれたイスラムの聖典であるコーランや預言者の言葉を記したハデイースや宗教書を写すために発達してきたので、それまで存在したどの書体を用いてもペルシア語の筆写に適しているとは見なされなかった。美しい響きを持つ詩の言葉として評価の高いペルシア語を視覚的にも美しく表現したいと願うイラン人の努力の結晶は、十四世紀後半に考案された書体‘‘ナスタアリーク体”であった。このナスタアリーク体はその出現の初めからペルシア語を美しく見せるために最も相応しい書体として熟烈な支持を獲得し、十五世紀以降にはペルシア語で書かれた写本のほとんどがこの書体で筆写されるようになった(注1)。殊に、支配者達のほとんどがペルシア文学を愛し、自らも詩を詠むことを王侯の重要な教養の一つと捉えていたこの時代の風潮は、それぞれの宮廷工房における写本制作を促すこととなった。また、宮廷に抱え関喜房-59-
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