られていた書家達は書物の筆写の合間に数篇或いは数行の詩を一枚の紙に書いた作品“ゲトウエ”qifahを大贔に生み出していた。ゲトウエとは、書家が自分の望む語句や詩句を一枚の紙葉に記した作品である。以上に説明した写本やゲトウエの制作において常にその題材となっていたのはペルシア語詩であり、用いられる書体もナスタアリーク体であったことは言うまでもない。こうした状況のもとに十五世紀の写本制作の隆盛は始まった。そして、この隆盛の副産物として、写本の紙葉を飾る多様な技術が発展した。以上のような状況は、筆者がテヘランの国民図脅館で確認した十六世紀に著作されたゴトブッデイーン・モハンマド・ゲッセホーンの書画に関する論文においても窺われる(注2)。料紙装飾を発展させた新しい書物形態“モラッカァ”の出現当時、写本制作の一環として“モラッカァ’'muraqqa'と呼ばれるアルバムの制作も行われるようになっていた。モラッカァとは、本来、神秘主義の托鉢僧が着る端切れを継ぎ合わせた粗末な衣服を意味する言葉であるが、この言葉が日本の手鑑にあたる書両を貼り合わせたアルバムの意味で使用されるようになったのは、ティームールの孫バーイソンゴルのヘラートにおける宮廷でその制作が行われるようになった十五世紀初頭であった(注3)。以後、ナスタアリーク体の出現によって飛躍的に増大したゲトウエの数は、モラッカァ制作に必要な書の作品の重要な供給源となり、モラッヵァ制作熟に拍車をかけることとなった。今日、モラッカァといえば通常、折り本形式で製本、装丁された冊子というイメージが存在するが、折り本形式で仕立てられたモラッカアが出現するのは、十七世紀以降のことである。それまでのモラッカァは、通常の書物と同様の仕様で製本されていた(注4)。しかし、見かけは普通の本と同じではあっても、あらかじめ一つの事柄について紙葉上に筆写されている本とは異なり、実際には台紙上に内容も大きさも異なる紙片が貼りこまれた冊子である。台紙上に大きさや厚さに違いのある作品を貼り付けてそのまま製本しようとすると、紙葉の“のど”の部分と中央部の厚さの相違によって本の前小口が開いてしまい、締まりの無い見栄えの悪い本になるばかりか、すぐに壊れやすい本になってしまう。その欠点を解消すべく様々な工夫がなされ、結果として、書物の装丁技術の発展に大きく寄与することとなった。十六世紀以降、モラッカァ制作は益々盛んになり、現存するモラッカアの紙葉を見ると、大きさの異なる複数の作品がそこに貼られ、それぞれの作品の周囲には枠取りがなされ、どの部分で貼り合わされているのか肉眼では決して判別できない程、庇度な技術が駆使されていたことに気付かされる。そして、作品の周縁-60-
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