鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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1490年)の宮廷で制作されたモラッカァの調査に携わり、科学研究費による共同研究朝初期の高官で書家でもあったハージェ・モハンマド・モウメン(1541/42年歿)を“アフシャーネ・ビーフテ”afshan-ibikhtah(ふるいにかけたアフシャーン)の考案者として紹介している(注14)。先に述べたアフシャーンの考案者に関する情報同様この記述の信憑性にも大いに疑問があるとは言え、“ふるいにかけた”という技法を示唆する用語には非常に興味をそそられる。校訂者であるロクノッデイーン・ホマーユーンファッロフは、金泥或いは銀泥による装飾であると註記している(注15)。即ち、ブラシ状のものに含ませた金銀泥ををふるいの網目を通して弾き飛ばす技法と理解したものと思われる。また、サーム・ミールザーは別の箇所において、1537/38年に歿した書家ハージェ・ハーフェズ・バーバージャーンが‘‘ザル・ファシャーニーダルオストハーン’'zarfashani dar ustkhvan(骨の砂子散らし)に秀でていた(注16)、と指摘している。彼のこの記述に関して、後世の研究者達は誰一人として注意を払っていないが、当時、金箔片を骨で作った筒の中に入れて振りまいていたことを窺わせる記述であることは明らかである。とまれ、上記の“ふるいにかけたアフシャーン”と“骨の砂子散らし’'は金銀泥を用いる場合と金銀箔を使用する際の違いを示す=っの用語と認めるべきであろう。但し、前者の技法においては金銀泥に限らずどんな色でも使用可能であることに留意すべきであろう(注17)。文献に記された技法の遺品に即した解釈筆者は、十互世紀後半にアナトリア、イラク以東、ホラーサーン地方を除く現在のイランを含む広い地域を統治していた白羊朝のソルターン・ヤァクーブ(在位1478-の一員として過去数年間、書の研究を分担した。現在、イスタンブールのトプカプ宮殿美術館における整理番号H.2153,H.2160で知られる二つのモラッカアは、十三世紀以降の書画の作品を含んでいるが、それらのほとんどは、十五世紀の作品で、特に、ソルターン・ヤァクーブの宮廷に抱えられていた書家や画家達の作品を多く含んでいることからソルターン・ヤァクーブのモラッカァとも呼ばれている(注18)。当時、支配する地域は広大であっても、ヘラートのティームール朝に比して文化的には後発と見られている白羊朝において、三代目の統治者ヤァクーブは、文学や芸術の振興に深い理解を示したが、これら二つのモラッカァは彼の努力の賜物であろう。ソルターン・ヤァクーブのモラッカァの中に見られる書の作品群を眺めると、使用されている紙に様々な装飾が施されていることが明らかであるが、中でも、金箔や金泥による料紙装飾に特色がある。-63 -

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