鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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2.第一期:日本到着から1888年12月まで状態が極めて脆弱であり、一部水による破損も見られる(注5)。CopyBookは、日付の入っていない「富士登山」についての報告から始まるが、その次は1889年2月2日付母宛の手紙である。内容から登山は真夏であったと考えられるため、CopyBook を手に入れた後、その記念すべき最初のテーマとして1887年ないし1888年に敢行した「富士登山」をわざわざ選んだ可能性がある。またCopyBookに収められた最後の手紙は1890年10月23日付両親宛のものであり、最初から最後までの総頁数は371頁となっている(注6)。つまりCopyBookはムテジウスが日本に滞在した三年半のうち=年間弱の詳しい動向を伝える資料であり、日本到着の1887年6月から1888年末までの一年半、1890年10月から離日の1891年1月までの約ニヶ月間のムテジウスの動向は、断片的に残されている書簡を調査しなければならない。さらに今回、CopyBookを補完する資料として、書簡のほか、遺稿に含まれていたムテジウスの速記による資料類を解読した(注7)。また、とくに日本滞在中の建築関係の仕事内容については、ドイツのBau-Komissionに定期的に送られた実務報岩書が包括的な内容を提供してくれる。以下、CopyBookの内容を中心に、新たな資料を用い、日本到着から離日までのムテジウスの足跡を概観したい。ムテジウスは、1887年4月9日付でベルリンの駐独日本公使小松原英太郎と、同年6月15日付で内務大臣井上馨との間で、正式な雇用契約書を結んでいる(注8)。それは、1886年6月30日付で日本政府とエンデ&ベックマン建築事務所が官庁集中計画について締結した契約書に基づき、1887年6月1日から1891年6月1日までの期間、ムテジウスを建築助手として雇用するというものであった。シャルロッテンブルクエ科大学(現ベルリンエ科大学)修了前後からエンデ&ベックマン建築事務所に所属していたにしても、実務経験に乏しいムテジウスが、なぜ日本に派遣されることになったのか、詳しい理由はわかっていない(注9)。ただ1886年12月10日付のムテジウスに宛てた手紙の中でヴィルヘルム・ベックマンが、「まず試験を終えてから、日本行きについて相談するのがよいだろう」と述べているところから、この時期にはすでに日本行きの打診があったと考えてよい。そして契約書の日付から、ムテジウスは、4月中旬にドイツを出発し、6月初旬には日本に到着したと考えられる。ムテジウスは、官庁建設予定地の日比谷近く、麹町三年町に居を構えた。日本政府から提供された住居は、日本家屋を洋風に改築した家であり、ムテジウスと同じく日本に派遣されたドイツ人同僚たちも隣家もしくは周辺に居住していた。ただし、日本-69-

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