鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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到着直後から1887年末までのムテジウスの動向については、何もわかっていない。美侯別邸の設計図にとりかかっている(注10)。また8月のーカ月にわたる夏期休暇中には、故郷ヴァイマールに建設ないし改築する両親と兄夫婦の二世帯住宅の設計にとりかかっているが、本件については後述する。いずれにしても、官庁集中計画のために設けられた内閣直属の臨時建築局内における仕事の詳細以外、私的な動向や交流についてはほとんどわかっていない(注11)。ただ当時ムテジウスが熟心に日本のエ芸品を買い求めていた記録が存在する。それがである(注12)。そこには(1)漆エ(2)青銅器(3)他の金エ(4)染織(5)刺繍(6)武具(7)七宝(8)堆朱(9)竹木工(10)掛軸(11)その他の絵画(12)陶磁器(13)書籍(14)写真(15)浮世絵(16)その他、と分類された総件数262件の作品が購入価格と共に記載されている。そのリストを見る限り、ムテジウスの関心を引いたのは、製作者が特定できるような芸術的名品でもなければ民族学的資料でもなく、それらを日常生活に利用することで生活または生活空間の質を向上させるような製品であった。また、ムテジウスは欧米への輸出用に製作されたものに対しては終始批判的であった。記載されている作品が具体的にどのようなものであったか全貌は定かではないが、ムテジウスの日本での住居さらに後日のロンドンでの住居内部の写真にその一部が垣間見られる〔図2、3〕。またこの手帖に含まれてはいないが、ムテジウスは建具や欄間の雛形本や蒔絵大全も持ち帰っており、それらは1905年に当時のベルリン美術工芸博物館付属図書館(現在の美術図書館)に収蔵された(注13)。この年ムテジウスは、臨時建築局での通常の仕事の傍ら、普及福音伝道会リート・シュピナーから依頼された、伝道の拠点となる新教神学校ならびにドイツ人教区のための福音教会の設計にとりかかった。また上で述べたヴァイマールの口世帯住宅設計図も並行して進めており、1889年は彼が自立した建築家としてのキャリアを実質的にスタートさせた年と考えてよいだろう。神学校ならびに福音教会の構造と設計依頼の経緯については、拙論ですでに報告したので詳細はここで割愛するが、福音教会の内部構造と二世帯住宅の概要について、ヴァイマールの調査で新たに得られた知見を簡単に報告しておきたい。1888年1月に彼は、司法省の建築用地の調査と部分設計図の作成と並んで、三条実1888年10月1日の日付をもつ「Verzeichnismeiner Japanica(日本百科目録)」なる手帖3.第二期:1889年(Allgemeine Evangelische-Protestantische Missionsverein)の初代伝道師であるヴィルフ-70-

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