鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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うやく建設が始まり1897年1月に完成したドイツ福音教会は、関東大震災で倒壊するまで中六番町、つまり現在の千代田区六番町にあった〔図4〕。ムテジウスはこの教会を初期ゴシック様式で設計しているが、その理由を周囲との環境に調和し、資材の調達ならびに日本人大工による施工が容易であるから、としている(注14)。それとは対称的にムテジウスが最も親しんでいた教会、つまりヴァイマール北方にある故郷グロース=ノイハウゼンにある教会は、バロック様式で飾られている〔図5〕。この聖ゲオルク教会は1728/29年に建設された、内陣中央祭壇上に説教檀のあるプロテスタント教会であり、ムテジウスはこの教会でラテン語や音楽を勉強した。ヴァイマールと関係が深い普及福音伝道会の依頼でありながら(注15)、ムテジウスは故郷の教会の建築様式を全く手本にすることなく東京の教会を設計した。その態度は、後の著書『様式建築と建築芸術』(注16)での、建築物は建てられる土地と密接な関係を持ち、可能な限り当地の資材を使って建てられるべきだという彼の主張と呼応している。また1889年秋に完成したヴァイマールの兄夫婦と両親のための二世帯住宅は、Str.)にあったことがわかる。しかし現在同地にはCopyBookの内容に合致するような建物は認められない。また第一次世界大戦直後ムテジウスは兄カール(注17)のために三階建ての住宅を設計しているが、それはGrundstedterStr.に交差して走る、現在のSchubertStr.にあった。両者とも番地が定かでないため、この住宅が、上記二世帯住宅跡地に建てられた可能性も拭いきれない。尚このカール・ムテジウス邸も現存していない。帝国憲法が発布され、第1回帝国議会が開催されている。ムテジウスは手紙の中で、憲法発布に際した町の祝賀の様子を詳述し、議会開催や森有礼文相暗殺事件そして国粋主義の台頭などについて触れている。しかし何よりムテジウスが楽しみにしていたのは、「芸術・産業都市(Kunst-und Industrie-stadt)」(注18)京都への旅行であった。ムテジウスの京都旅行について、CopyBookの該当個所は水による損傷がひどい上、数頁分が切り取られており、残念ながらほぼ解読不可能である。しかし速記によるメモが断片的な情報を伝えてくれる。それによれば、ムテジウスは8月11日に列車で東京を出発し、横浜を経由してまず名古屋に向かった。名古屋では、名古屋城などを見物した後、瀬戸を訪れている。次に奈良で正倉院を見た後、人力車で京都入りし1889年初夏の設計依頼から紆余曲折を経て、ムテジウスの帰国4年後の1895年によCopy Bookからヴァイマール旧市街に程近い旧GrundstedterStr.(現Richard-Wagner1889年は近代日本にとっても重要な年であった。この年(明治22年)には、大日本-71-

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