鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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4.第三期:1890年から帰国まで1890年は昨年から引き続き臨時建築局とドイツ福音教会設計の仕事が、彼の生活のたのが8月16日であった。彼が訪れたことがわかっている場所は、御所、西本願寺、東本願寺だけであるが、室内空間の調和した色調ととりわけ両本願寺の天井などの幾何学的木工装飾に大きな関心を寄せている。そしてそれらは、後のムテジウスの住宅建築に見られる要素でもある。ムテジウスは京都の人々とその暮らしが東京にくらベ遥かに洗練されていることに驚嘆しているが、連日の雨に祟られ、結局は自身が期待していたほどの収穫をえられないままに東京に戻ったようである。中心をなしていた。その他CopyBookで頻繁に語られるのは、ドイツ人同僚とりわけオスカー・ティーツェ夫妻や東京音楽学校に招聘されていたディットリビといった人々と音楽に興じたことや、鹿嗚館や学習院で開催される音楽会へ参加したことである〔図6〕。ムテジウスが頻繁に行き来していたのは近くに住むティーツェ夫妻であった。他にも当時の駐日ドイツ公使であるホルレーベンやドイツ語教師ハウスクネヒト、医師のベルツやスクリーバなどと交流を持ってはいたが、自ら「あまり頻繁に他人とは付き合わない」と手紙で述べているように、一定の距離を保った関係であったようだ。また彼は「大方のヨーロッパ人は分不相応な生活を送っている」と、彼らの派手な生活に批判的であった。ムテジウスは在日ドイツ人たちと、先に述べた普及福音伝道会、そしてドイツ公使館、横浜にあったクラブ・ゲルマニア、さらに1873年に設立され現在も続く、ドイツ語圏の人々による東アジア研究協会「ドイツ東洋文化研究協会(DeutscheGesellschaft ftir Natur-und Volkerkunde Ostasiens=OAG)」の会合で交流する機会をもっており、1890年6月にはOAGの司書に就任している。この年、ムテジウスは春に第一回内国勧業博覧会を見物した後、夏には日光を訪れている。博覧会については「興味深いが優れたものは少なく、日本の現在の芸術・産業は過去から後退している」(注19)と批判しているが、日光については明確な感想は記されていない。しかし大学時代の友人たちが着実に本国でキャリアを積んでいく一方で、遅々として進まない官庁建設や建設の目処すらたたない福音教会の設計に関わる自らの立場に、ムテジウスは満足できなくなっていた。折しも日本政府は開国当初数多く雇用した外国人、いわゆるお雇い外国人を一斉に解雇し始め、その余波は臨時建築局にも及びつつあった。そのような状況下で、ムテジウスは契約期間を半年残し、1891年1月7日帰国の途についたのである(注20)。-72 -

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