鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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注Bookならびに関連資料の翻訳出版という形で実現したいと考えている。(1) 例えばムテジウスの包括的モノグラフィーであるHans-JoachimHubrich, Hermann Muthesius, Die Schriften zu Architektur, Kunstgewerbe, Industrie in der >Neuen Bewegung<, Gebr. Mann Verlag, Berlin, 1980においても、著者は彼の英国滞在(1896-1903)を第一章とし、日本滞在については論究していない。(2) Werkbund-Archiv (hrsg.), Hermann Muthesius im Werkbund-Archiv, Ausst、-Kat.,Werkbund-Archiv, Berlin, 1990.特にs.108-110。(3) John Vincent Maciuika, Hermann Muthesius and the Reform of German Architecture, Arts, and Crafts, (4) 拙論「ヘルマン・ムテジウスと日本」『クッションから都市計画まで一ヘルマン・ムテジウスとドイッ工作連盟:ドイツ近代デザインの諸相1900-1927J展図録、京都国立近代美術館、(5) ムテジウスはイギリス滞在中(1896-1903年)も同様のノートを用いて書簡の写しを残しているが、それら二冊は日本滞在中のCopyBookより更に保存状態が悪い。(6) 手紙の宛先の内訳は以下の通り:両親宛38通、兄夫婦宛37通、郷里ないし大学の友人宛23通、エンデ並びに建築事務所宛(含業務報告書)14通、書籍注文書6通、その他16通。(7) Copy Bookや書簡におけるムテジウスの筆跡の解読はDr.Christa Kouschil氏の、さらに速記による資料の解読はHansGebhardt氏の全面的な協力によって可能となった。この場を借りて感謝の意を表したい。今後の課題が帰国した正確な日はわかっていないが、4月14日に父がイエナの病院で死去している。父の死に日に会えたにしろ、また会えなかったならば尚のこと、帰国直後の父の訃報はムテジウスを打ちのめしたことだろう。最後の最後で、日本滞在はムテジウスにとって良き想い出の日々ではなくなったのである。帰国後、ムテジウスが日本について、全くと言っていいほど言及していない背景には、このような事実があるのかもしれない。日本政府関係者が望んだような著名で熟練した建築家ではなかったムテジウスは、後のタウトやグロピウスのように関係者から歓待されたわけではない。それが理由ではないだろうが、近代化の端緒にいる日本と日本人に対する彼の眼差しは終始批判的な色合いを帯びている。しかしだからこそ、「日本」を賛美する言葉以上に、彼の日本に対する言説は興味深い。また同様の眼差しを彼は、日本に暮らすドイツ人そしてドイツ人杜会にも向けている。今回の研究では、それらを詳細に分析するまでには至らなかったが、機会を改めてこの問題に取り組み、その結果を、可能であればCopy1890-1914, Diss., University of California, Berkeley, 1998, pp. 36-73. 2002年、46-72頁。1891年4月、ムテジウスは、中国・インド・エジプトを経てドイツに帰国した。彼-73-

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