鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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(8) 工作連盟資料館ムテジウス遺稿(以下WBA-MN)Ordner 1所収資料ならびに「内務大臣請議外国雇入ノ件」(国立公文書館蔵)参照。(9) 一説にはムテジウスがピアノの名手であったから、とされている。(10) 三条実美侯爵別邸他、ムテジウスが日本滞在中に設計・施工された建築物の詳細については、前掲書「ヘルマン・ムテジウスと日本」を参照のこと。(11) 1888年2月1日付アウグスト・ブルーメンタール社からのムテジウス宛手紙は、ドイツからのピアノの輸送についてであるため、いずれかの時点でムテジウスの自宅にはピアノが置かれたと考えられる。(12) WBA-MN, Ordner 1所収資料。(13) 手帖に記載されていたものであろうごく一部の作品が、現在も遺族の手元に遺されている。また息子のエッカルト・ムテジウスによってベルリン東アジア美術館に寄贈された2点の浮世絵も、もともとムテジウスの所蔵だった可能性がある。美術工芸博物館付属図書館に売却した書籍のリストは、当時の館長PeterJes senがムテジウスに宛てた1905年7月2日付手紙に記されている。(14) Copy Book, Bl. 199-202 (15) 普及福音伝道会の最大のパトロンは、ザクセン=ヴァイマール大公カール・アレクサンダーであった。(16) Hermann Muthesius, Stilarchitektur und Baukunst: Wandlungen der Architektur im XIX. Jahrhundert und ihr heutiger Standpunkt, MUhlheim an der Ruhr, Schimmelpfeng, 1902.但し本著は翌年の第二版で大幅な加筆・変更が加えられている。(17) 兄カール・ムテジウス(KarlMuthesius, 1859-1929)は、ヘルバルト学派の教育学者であり、初等教育ならびに教員教育の改革に尽力した人物である。彼の教育に関する考え方と、ムテジウスによる工芸学校改革のコンセプトとの影響関係については、場所を改めて考えてみたい。(18) Copy Book, Bl. 120. (19) Copy Book, Bl. 315. (20) Copy Book所収の最後の手紙(1890年10月23日両親宛)において、ムテジウスは全く帰国日程について触れていないため、彼の帰国はこの後ニヶ月の間に慌ただしく決まったと考えられる。-74-

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