⑧ 五百城文哉の植物画1 はじめに2 五百城文哉についてー一ふたつの「高山植物写生図」について一一研究者:水戸市立博物館学芸係長寺門寿明五百城文哉は文久3年(1863)に水戸に生まれ、明治39年(1906)に日光で没した明治の洋画家である。その存在は、一般には没後長らく忘れられていたが、先年の展覧会の開催や、海外での相次ぐ作品の発見によって、ようやく近年、再評価の気運が高まりつつある。五百城ば洋画家として肖像画や風景両に優れた作品を遺したが、一方で植物画も多数描いており、わが国の植物画史の上にも大きな足跡を残している。現存する互百城の植物画の主な作品が、二組の「高山植物写生図」であり、その他には軸装と屏風の植物風景図が4点確認されているのみである。この二組の「高山植物写生図」は、どちらも植物を克明に描いた水彩画で、それぞれ約百枚からなり、一組が東京大学大学院理学系研究科付属植物園に所蔵され、もう一組が松平家に伝えられている。本稿では、この二組の写生図のうちとくに松平家蔵のものについて、その特徴及び成立の経緯などについて考察する。それにより五百城文哉の画業の中における植物画の意義を明らかにしたい。五百城文哉は、文久3年(1863)6月、水戸金町に水戸藩士の子として生まれた。本名は熊吉、「文哉」ははじめ画家としての号であったが、やがて改名して正式に本名としている。明治になり、水戸上市小学校を卒業した五百城は、上京して明治17年(1884)、農商務省山林局に職を得る。同時に、高橋由一の門をたたき、洋画を学び始めている。その後小山正太郎にも学び、また浅井忠の指導を受けたとも伝えられている(注l)。その後、明冶20年(1887)の東京府工芸品共進会や、明治23年(1890)の第三回内国勧業博覧会などに、入選者として五百城の名前を見ることができる。後者に出品した作品「元禄時代花見図」は褒状を受けている。しかし五百城はこの内国博への出品と前後して、職を辞し東京を離れて旅の生活に入る。地方の素封家を訪ねて、絵(主に肖像画)を描き、画料を得て旅を続けるとい-78 -
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