う生活であった。やがて明治25年(1892)に、翌年のシカゴ・コロンブス世界博覧会に出品する「日光東照宮陽明門」を描くために訪れたことが縁となって、五百城はこれ以後日光に落ち着くことになる。漢籍や諸芸に通じ、文人的な教養を身につけていた五百城は、東照宮近くの山中に居を構え、質素だが精神的には豊かで充足した生活を送った。五百城はここでの生計を立てるため日光を訪れる外国の人々向けに、東照宮などの風景を水彩で描いた。日光時代の五百城のもとからは何人かの弟子が巣立っており、少年時代の小杉放荒もその中の一人であった。さて日光で五百城が強い関心を抱き、情熱を注いだのは高山植物であった。五百城は、弟子の放篭を供にし、高山植物を訪ねて日光の山を巡った。自宅の庭にはロックガーデンを築き、そこで採集した高山植物を栽培している。これが日本における最初のロックガーデンともいわれている。そしてそこで植物を精密に写生して多くの植物画を描いたのであるしかし五百城はたんに植物の愛好家にとどまらなかった。当時の専門の研究者にも匹敵する知識も持っていたのである。五百城の植物研究をめぐる交流の中で重要なのが、東京で結成された山草会である。この会は明治35年(1902)から明治43年(1910)頃まで存続した裔山植物の愛好家たちのグループである。当時まだ一般的でなかった高山植物を採取、栽培して、山草陳列会と称する催しを開き、広く一般にも公開しその普及にも一役買っている。主要メンバーには、五百城の他、松平康民、加藤泰秋、久留島通簡、青木信光という四人の子爵たちがいた。また植物学者の牧野富太郎や武田久吉らもこの会に関わっていた。しかし五百城はやがて病魔に冒されてしまう。明治38年(1905)頃から体調を悪くし、翌年の明治39年(1906)6月6日、日光の自宅で息を引き取った。享年は満42歳であった。(1) 「高山植物写生図」の概要「高山植物写生図」(松平家蔵)は、先に述べたように現存する口組の五百城の「高山植物写生図Jの内の一組である。松平家蔵のものは全部で97枚の写生図からなって3 「高山植物写生図」について-79 -
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