いる。ほぼ同寸、同仕様で、内容的にも同趣向であることなどから、まちまちに描いたものをまとめたというより、一連のものとしての意図の下に、また期間的にもある程度集中的に制作されたと想像される。ただしこの中には一種類の植物について、完成作と習作的なものの双方が含まれている例もあるので、97枚というのが必ずしも完結した形というわけでもないようだ。さて「商山植物写生図」(松平家蔵)の概要は以下のとおりである。画面はすべて縦位置で、横位置のものはなく、また裏打ち、額装等はされていない。本紙の寸法は縦約33cm、横約24cm前後で、作品により多少の大小があり完全に一定ではない。本紙は、一部の作品に見られるすかし(ウォーターマーク)から、主にイギリスのワットマン(WHATMAN)製の水彩紙であることがわかる(注2)。なお一部の作品には周囲に細く貼った和紙が残っていた。糊を付けた和紙で用紙の周囲を固定し、板に水張りして描いたものと推定される。作品完成後、用紙をはがすために四辺の固定部分を切断する必要があり、この写生図の寸法の不揃いはそのために生じたと考えられる。絵の具は透明水彩で、画面の中心となる植物については、鉛筆による下書きをした上で着彩している。よい状態で保存されてきたため、褪色は軽度で鮮やかに色彩が保たれている。なお以上述べた材質と技法は、五百城の植物画以外の水彩画にもおおむね共通する特徴である。これらの作品の制作年代については正確にはわからないが、用紙のすかしからある程度の時期を特定することができる。松平家の写生図の用紙のすかしには、メーカー名のあとに「1901」から順次「1905」までの数字が見える(注3)。これは手漉きのころから行われていた製造年の表示である(注4)。もっとも多いのは「1903」で、このことからこの写生図に使用された紙の大半は、明治36年(1903)以降に製造されと推定される。作品の制作は、当然、紙の製造年以降ということになるから、この写生図は、明治34年(1901)以降、さらにその大半は明治36年(1903)から、五百城が病のため作品制作ができなくなる明治38年(1905)(没する前年)までの間に制作されたものと推定される。五百城にとっては最晩年の時期に当たる。-80-
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