鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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(4) 成立について写したかのように見える。植物の全体が相似しているものもあるが〔図2〕、ある一部の形だけが相似している場合が多い〔図3〕。全体の形が相似している場合は、まるで東大蔵の植物の図に周囲の様子を描き込んだのが松平家蔵の図のようにも見える。このような相似の原因として、二つの可能性が考えられよう。両図に先行する一枚の図があって、それを原図としてどちらも描かれたか、あるいは、どちらか一方の図を直接原図にしてもう一方の図が制作されたかである。後者の場合であれば、東大蔵のものを元にして、松平家蔵のものが描かれたのではないかと考えられる。前者の場合でも、やはり、東大蔵のものが松平家のものに先行して制作されたと思われる。先に述べたように、松平家蔵の図は東大蔵の図より、画面全体の構成が絵画としてよく練られており、その一方で植物描写の細密さの点ではやや粗い。また松平家蔵のものは時間的に集中して描かれたようであることなどから、先行するスケッチ、または東大蔵の写生図のような記録的、資料的な図がまず先にあり、これらを元にして、より鑑賞画的な作品として松平家の作品が制作されたのではないかと推測される。東大蔵の図と植物の一部分のみ共通する例が多いのも、植物の数や配置を操作することによって、構図上の調整を行ったためではないかと思われる。「高山植物写生図」(松平家蔵)は、作者の五百城から松平康民の手に渡り現在まで伝えられたものである。松平康民は、津山藩主松平齊民の五男として、文久元年(1861)に生まれた。明治になり松平家は子爵の爵位を授かり、明治11年(1878)に康民が松平家当主となっている。松平康民は、貴族院議員などの公職を務めたが、明治期の熱心な山草愛好家としても知られ、先に触れた山草会の中心的人物でもあった。月に一回開かれた山草会の会合はたいてい東京の本郷龍岡町の松平邸で開かれている。五百城と松平康民との間には山草会の場だけではなく、直接の交流もあった。松平家の別邸(別荘)が、当時日光の花石町にあって、松平は避暑のためにここに滞在したおりなど、しばしば五百城宅を訪ねている(注5)。さて五百城は松平康民はじめ山草愛好の同好の士から、注文を受けて作品を描くことがあったらしい。五百城の植物画の業績の中でも、とくに独自の形式である軸装の-83 -

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