鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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言えない。また、植物画以外にも五百城家に伝わる絵葉書の中に、近景の植物と遠景の風景のパースペクティブをレンズの効果によって強調した趣向のものがあり〔図6〕、あるいはこうしたものがヒントになったことも考えられる。そしてまた水彩画家として日光の風景画を多く描いていた五百城が、花を主とした風景画としてごく自然に周囲や背景を描き込むことを思いついた、という可能性も忘れてはならないだろう。五百城の植物写生図は、それまでの我が国の植物画の歴史において、西洋画法を用いたリアルな再現性と、植物学的な知識に裏付けられた写実、そして優れた絵画性といった点において特筆されるべきものである。大場秀章氏が述べるとおり、これはカルアートの先駆のひとつとして位置付けることができるだろう。それでは五百城の画業の中ではどうだろう。五百城は洋画家として、水彩を用い日光の寺社の建物等、風景画を主に描いた。二組の「高山植物写生図」は、画材の面から見ても、技法の面から見ても、五百城の水彩画家としての仕事と、植物研究家としての活動が、まさに交差する地点に成立した作品と言えるだろう。東大蔵の写生図を原図として、画面構成など絵画としての結構を考慮して制作された松平家の写生図は、植物研究家よりも少し画家よりの五百城の仕事と位置付けることができる。荒俣宏は東洋の花鳥画と西洋の植物画を比較して、東洋の花鳥画が生命感に濫れる自然の力を表現しようとするのに対し、西洋の植物圃は基本的には、死んで人間の管理下に置かれたもの、すなわち標本として植物を描いていると対比している(注11)。この対比に照らしてみれば、五百城の写生図は、西洋画の画材、技法、描法を用い、西洋の植物学的知識に基づきながらも、作品の世界はあくまで東洋的と言えるだろう。自然の中に、生命感溢れる植物の姿を描写しているからである。五百城は、西洋の絵画の技法を身につけながらも、豊かな和漢の素養に裏打ちされ、文人的な生き方を貰いた点で、まさに明治の「和魂洋オ」の人と呼ぶにふさわしい。この「高山植物写生図」にもまさにそんな作者の「和魂洋オ」的な面が反映されていると言えるであろう。4 むすび「H本の高山植物を本格的に描いた最初の洋風植物画」(注10)であり、日本のボタニ-85 -

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