注頁(1) 本多錦吉郎〔綱刊〕「追弔記念洋風芙術家小伝』(「五百城文哉君」の項)、1908年(2) 一枚のみ「-RKEYMILL」というすかしが認められた。これはワットマンの工場名であるTURKEY MILLのことと思われる。(3) 製造年の内訳は、「1901」1枚、「1902」1枚、「1903」6枚、「1904」1枚、「1905」3枚の計すかしは、全紙一枚につきーカ所なので、これを裁断して得られる紙のうちの一部にしか認められない。したがって、上のとおり、年号のすかしのある紙は少ないが、この製造年の比率は、(4) 大江礼三郎「手漉きから機械すきへ」「和紙文化研究J10、2002年、22頁(5) 松平康民『日光山避暑旅行記』(自筆日記、1903年、個人蔵)による。(6) 牧野富太郎「本邦における高山植物研究の歴史」『実際園芸臨時増刊高山植物』誠文堂書店、(7) 太田洋愛「トラキチランと五百城文哉J『ガーデンライフ』誠文堂新光社、1971年9月号、22(8) J. D. Hooker, The Rhododendrons of Sikkim-Himaraya. 1849 (9) R. Thornton, Temple offiora. 1807 (10) 大場秀章「解説」『日本山草図譜」八坂書房、1982年、106頁(11) 荒俣宏「イメージ解読のための図像学入門」「庭園』小学館、1999年12枚であった。97枚全体についてもおおむね当てはまると考えてよいと思われる。7-2、1929年、6頁-86-
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