鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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近代初期、北海道開拓使に雇われた画工の基礎的研究―96―研 究 者:北海道開拓記念館 学芸員  三 浦 泰 之1 はじめに開国から文明開化期を経て近世から近代へと時代が推移するなかで、画家もまたその波に巻き込まれた。この時代を生きた画家と彼らが制作した絵画が、当時の社会と取り結んだ関係は実に多様であったと考えられる。そして、そうした画家の伝記や画業の研究は、高橋由一など主に中央で活躍した画家については、近代日本の「美術」概念を問い直すほどに研究が深められてきた(注1)。しかし、地方の事例に目を転じると研究蓄積は乏しく、北海道もその例外ではない。また、近代初期の特徴に新政府の富国強兵・殖産興業政策のなかで絵画が産業技術として利用されたことがある。新政府の役所や各県庁など、政府系諸機関に雇われた画家は、動植物の写生図、地図や工業製品の図案の制作などに携わったのである。例えば、明治17年(1884)の第2回内国絵画共進会に出品した1550人の内、約7%に相当する115人がそうした政府系諸機関への雇用を経歴に記している(注2)。ここには、画家の生計をめぐる問題も関わってくる。しかし、そうした画家、つまりは「画工」に関する研究もいまだ不十分であろう。そこで本稿では、政府系諸機関の一つである開拓使に「画工」として雇われた人々について、画業やその略歴といった基礎的なデータを整理することを目的とする。そして、その作業を通じて、当該期における「画家」「絵画」、さらには「美術」をめぐる状況を豊かに理解するための素材を提供したいと考えている。ちなみに開拓使とは、当時重要な国家課題であった北海道「開拓」を進めるために新政府が明治2年に設置した機関である。その後、開拓使は、アメリカを中心とする欧米諸国から外国人技術者を雇い、明治15年の廃止まで、農業・鉱業・交通通信などさまざまな分野にわたり欧米の近代的な技術を導入して事業を展開した。組織機構としては、幾多の変遷を経て、道内に札幌本庁と、函館支庁、根室支庁、東京には東京出張所が置かれている。2 開拓使に雇われた「画工」の略伝開拓使の「画工」については、1970年代から80年代にかけて、高倉新一郎氏(注3)、小野規矩夫氏(注4)による研究があるが、川口宜寿、船越長善、沢田雪渓という主に札幌本庁に雇われた一部の「画工」が簡単に紹介されたに過ぎなかった。そのなか

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