鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―97―で、近年の注目すべき成果に、田島達也氏らによって進められた北海道大学植物園博物館所蔵絵画の調査研究がある(注5)。そこでは、主として、同博物館が所蔵する鳥類図の制作過程への着目から、若林友恭、牧野数江、杉浦高融、沼田正之という東京出張所に雇われた「画工」の勤務実態と画業や伝記の一端が明らかにされてきた。しかし、開拓使に何人の「画工」が雇われて、どのような役割を担ったのかなど、その全体像はいまだ明らかではない。よって以下では、従来の研究史に学びながら、開拓使の「画工」について、その基礎的なデータを整理する。なお、注が煩雑となるために、出典は文末の付表にまとめた。また、博覧会や展覧会への出品については、表1を参照していただきたい。①川口宜寿 弘化2年(1845)〜明治37年(1904)30石取りの旧南部藩士。号・月村。鈴木南嶺門下で南部藩御用絵師であった父・川口月嶺から四条派を学ぶ。維新後、画の道で生計を立てるために、明治3年(1870)に単身外国に開かれた商港であった函館に向かう。その後、同年11月に月俸10両、「地図御用」として採用された。翌年6月には家の事情により辞職して盛岡に戻るも、明治5年7月に「十二等出仕」で再び雇われ、同年11月まで在勤した。辞職後は盛岡に戻り、明治15年の第1回内国絵画共進会や明治32年の日本絵画協会第7回展などに出品しているが、家計は苦しかったようである。また、東京美術学校の教師に請われたが断ったという逸話も伝えられている。②甘利後知 嘉永元年(1848)〜?開拓使に採用時は「静岡県貫属士族」。明治5年4月に、同年に東京に設けられた開拓使仮学校の「生徒取締」として雇われ、同年5月には「画学方」となって、翌年5月まで在勤した。翌月には「十五等出仕」となり、東京出張所物産課に在勤した。「北海道地質鉱山検査」(明治6年)など、北海道へも出張している。明治7年の物産課の事務分掌には「書記/書籍/絵図」とあり、月給12円である。なお、甘利や後述する牧野と同時期に東京出張所物産課に在勤し、その事務分掌に「絵図」とある人物に、加藤義乗と窪田将房がいる。いずれも地図や地質図の制作に従事しているが、「画工」と呼べるかどうか判断できなかったので、とりあえず本稿では除いた。ちなみに、加藤は後に札幌本庁に転任し、主に民事局地理課に在職している。

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