鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―98―③中島檪堂 文政7年(1824)〜?開拓使に採用時に「酒田県鷹町商」であった以外、その経歴は不明である。明治5年(1872)5月から7月に「一時御雇入画工」として、札幌周辺で開拓使のウィーン万国博覧会(明治6年開催)への出品関係の仕事に携わっている。その後、御用係となり、札幌本庁地図掛に配属された。④渡辺貞斉 生没年不詳明治5年(1872)4月から7月にかけて、中島とともにウィーン万国博覧会への出品関係の「物産取調写生」に携わっているが、それ以外の経歴や画業は不明である。⑤井関渫 文政12年(1829)〜明治17年(1884)旧幕臣で、開拓使に採用時は「静岡県士族」。号・粲峯。天保7年(1836)から画を南宗派の大岡雲峰に学ぶも「後流派ヲ捨テ心ヲ写生ノ一路ニ止ム」という。時期と内容は不明ながら、「公務」で「畿内東海東山ノ諸道及播磨」へ訪れている。また、時期は不明ながら、「右手ヲ挫折シ左手ヲ以テ巧ミニ揮灑ヲ」なしたという。開拓使には明治5年5月に「十二等出仕」として雇われて、開拓使仮学校で「画学教授」を務めた。後には、東京出張所物産掛の「絵図取調」(明治6年)、東京出張所勧業試験場培養係の「製図専務」(明治9年)などとして「官園植物写生」などに携わった。明治10年には職を辞している。その他の画業としては、東京府から、明治14年の第2回内国勧業博覧会、明治17年の第2回内国絵画共進会への出品が確認される。なお、後者では、「新ニ機軸ヲ出シ別ニ見解ヲ開キタルモノ」として新しく加えられた「第七区」に出品している。⑥若林友恭 文政8年(1825)〜?開拓使に採用時は「東京下谷二長町十一番地士族」。経歴には不明な点が多いが、文久2年(1862)に幕府の洋書調所画学局に採用され、博物図譜の制作に携わったことが知られている。維新後は、大学東校の「少写字生」(明治3年(1870))、文部省十四等出仕(明治5年)となり、同年7月には開拓使に「十四等出仕」で採用され、東京出張所勧業課に配属された。地図の制作や、開拓使が明治9年から着手したイギリス人商人ブラキストンが所有していた北海道の鳥類標本の模写事業などに携わっている。明治9年2月には東京出張所勧業課「一号試験場」の「製図専務」である。同年11月に札幌本庁民事局地理課が東京出張所に若林の「呼寄ノ申入」を行い、翌年2

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