鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―99―「油絵之部」に挙げられている東京在住の24人中に「下谷 若林友泰月の文書には「本庁在勤伺中」とあるが、結局は渡道しなかったと考えられる。明治10年11月に刊行された開拓使の『官員名鑑』まで、その名前を確認できる。その他の経歴や画業はよくわからないが、明治12年刊行の『現今書画人名録』の⑦船越長善 天保元年(1830)〜明治14年(1881)30石取りの旧南部藩士。号・月江。川口月村と同じく川口月嶺門下で四条派を学ぶ。嘉永3年(1850)に家督を継いだ後、勘定方(同年)、沼宮内奉行(慶応元年(1865))、田名部山奉行(慶応3年)などを歴任した。北海道との関わりでは、安政2年(1855)から翌年にかけて南部藩の蝦夷地警備の一員として箱館に在勤したことが注目される。この時に描いた《箱館港図》《夷様真写》が盛岡市中央公民館にある。維新後は盛岡県(後の岩手県)に務め、明治5年7月には岩手県租税課検地御用係となるが、「北海道開墾見込」を抱いて同月に辞職し、翌月には札幌へ訪れた。そして、翌年2月に開拓使札幌本庁「当分抱地図掛」の「画工」に採用されている。その後、物産局博物課と製物課(明治6年)、民事局勧農課(同年)などにも在職したが、主に民事局地理課で「地理取調」に携わった。明治10年には「八等属」に昇進しているが、明治14年に地理課在職中に病死した。⑧牧野数江 天保2年(1831)〜?開拓使に採用時は「東京府神田区猿楽町二丁目壱番地士族」。号・錦池。経歴には不明な点が多いが、慶応4年(1868)の戊辰戦争には幕府方として参加している。開拓使には、明治7年(1874)5月に月俸25円の「雇」として採用され、東京出張所物産課に配属された。明治7年の物産課の事務分掌に「絵図写取」とある。明治8年から翌年には札幌に在勤し、北海道の鉱山調査を担った外国人技術者ライマンのもとで「製図補助」に携わった。明治9年に帰京後は東京出張所勧業課の「雇」として、鳥類図(ブラキストン鳥類標本)といった写生図や、開拓使が製造した缶詰の化粧紙の制作などに関わった。明治14年5月には札幌在勤を命じられて、開拓使の廃止後も残務取扱所に勤務したが、明治15年3月に免職となった。また、「東京府」から、明治10年と14年の内国勧業博覧会に出品している。⑨小林藤吉 文政9年(1826)〜?開拓使に採用時は「東京府平民」。いつ雇われたのかは不明であるが、明治8年〔ママ〕」とある。

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