(1875)12月の開拓使東京出張所の職員名簿に「旧工業課 御雇」として名前が確認される。その後、東京出張所勧業試験場「仮博物係 製図専務」(明治9年)などを務めて、明治10年2月頃からは函館支庁七重勧業試験場に在勤した。明治14年の月俸は40円である。開拓使廃止後は、その事業を引き継いだ北海道事業管理局の七重農工事務所に少なくとも明治19年まで勤務していることがわかる。―100―なお、明治13年に開催されたベルリン漁業博覧会への開拓使の出品に絡んで制作された《北海道漁業図絵》(市立函館図書館所蔵本)は「小林秋涛」という人物の筆である。この《図絵》は道南の漁業景況と漁具を描いたもので、小林が明治10年以降、函館支庁に在勤していることから、この「秋涛」と同一人物の可能性がある。⑩杉浦高融 生没年不詳開拓使に採用時は「静岡県士族」。経歴は全く不明であるが、明治14年(1881)の第2回内国勧業博覧会には自身が絵付けした肥前焼と薩摩焼の花瓶を出品しており、絵付師であった可能性も指摘されている。開拓使には、明治9年7月に、月俸10円程度、「一時雇」として採用され、東京出張所勧業課で、ブラキストン鳥類標本の模写に携わった。その後の画業として、明治36年の第5回内国勧業博覧会への出品が確認される。⑪沼田正之 天保9年(1838)〜明治34年(1901)旧尾張藩士で、開拓使に採用時は東京に在住。号は朴斎、後に荷舟と改めた。尾張藩士であった祖父・沼田半左衛門(号・月斎)に画を学び、松村呉春門下の野村玉渓や南画の山本梅逸に「親炙」したという。開拓使には明治9年8月に、月俸15円程度の「一時雇」として採用され、杉浦同様に東京出張所勧業課でブラキストン鳥類標本の模写事業に携わった。事業終了後も勧業課で動物の写生図の制作などに関わったと考えられる。明治12年3月には「画工」を必要としていた札幌本庁への転任の話が持ち上がっているが、同年7月に辞職した。しかし、明治14年の、後述する岩崎主馬を東京出張所で採用する際の文書に「精々勉励シ速ニ運方致シ候様、沼田正之江厚ク申付置候間」とあることから、その後も何らかの形で開拓使と関わりを持っていたことがわかる。その他の画業として、明治9年のフィラデルフィア万国博覧会以降いくつかの展覧会への出品、函館(明治18年)や箱根(明治23年)への遊歴などがある。また、明治21年造営の明治宮殿の杉戸絵《鶉に野菊図》《桔梗花図》(宮内庁所蔵)を制作した。
元のページ ../index.html#109