鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―101―⑫狩野昭信 天保11年(1840)〜明治24年(1891)開拓使に採用時は「静岡県遠江国敷知郡浜松駅五番地士族」。号・勝玉。深川水場狩野家に生まれ、画を幕府の奥絵師・木挽町狩野家の狩野勝川院雅信に学び、「幕府絵事」に携わった。維新後、兵部省海軍十三等出仕(明治4年)、地理局雇となる。開拓使には、明治10年7月に札幌本庁民事局地理課と勧業課を兼任する「画工」として雇われ、明治12年5月まで在勤した。先述したように渡道しなかった若林の代理として雇われたと考えられる。ちなみに、制作年は不明ながらも、北海道増毛町にある厳島神社には《雲竜の天井画》がある。その後の画業としては、明治15年と17年の内国絵画共進会、明治18年と19年の鑑画会、明治23年の第3回内国勧業博覧会などへの出品が確認される。明治15年の第1回内国絵画共進会では審査官も務めたが、その際の肩書は「内務省地理局雇」であった。また、明治宮殿の杉戸絵《梧桐図》《枇杷図》の制作(戦災で焼失)、日本絵事協会の設立(明治22年)などにも関わった。⑬栗田鉄馬 天保9年(1838)〜大正6年(1917)旧会津藩士。会津藩が戊辰戦争で敗れた後、明治2年(1869)に兵部省管轄のいわゆる「会津降伏人」の一人として小樽に移住した。明治4年には余市郡に移るも、明治10年代には札幌に転居している。開拓使には、明治11年9月に札幌本庁勧業課の「画工」として日給35銭で「一時雇」され、少なくとも明治13年11月までは在勤が確認される。その他の画業としては、明治20年代から30年代に、アイヌや札幌神社祭礼などを題材とした石版画の原画を制作していることが特徴的である。一方、栗田は太子流の剣術家として当時著名で、明治32年発行の『札幌案内』には「撃剣家」5人の中にその名前がある。明治44年の皇太子北海道行啓の際には「御前試合」を行い、同年に札幌の豊水尋常高等小学校に創設された「撃剣部」の講師にもなっている。また、元新選組副長助勤で晩年を小樽で過ごした永倉新八と交友を持った。⑭一瀬朝春 天保7年(1836)以前〜明治16年(1883)旧会津藩士。戊辰戦争で敗れた会津藩が移封された下北半島の斗南藩で「司民掛開拓課」(明治4年)に在勤した後、北海道に渡ったと考えられる。開拓使にいつ雇われたのかは不明であるが、明治12年春には札幌本庁物産局博物課の「御雇」として名前が確認できる。その直後に函館支庁勧業係の「雇」となり、ベ

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