―102―ルリン漁業博覧会への開拓使の出品関係の「図画取調担当」(明治12年)や、函館燧木製造所の「建物并諸器械等悉ク図画説編輯」(明治13年)などに携わっている。⑮鏑木雲洞 文化12年(1815)〜明治25年(1892)旧大村藩士で、開拓使に採用時は「東京府士族」。谷文晁門下の父・鏑木雲潭に画を学ぶ。安政6年(1859)刊行の『書畫薈粹』二編には自筆のカイコガの挿画とともに名前がある(29人中の1人)。また、明治9年(1876)8月刊行の『東京書画人名一覧』に名前が挙げられている画家111人中に「画 木挽丁一 鏑木雲洞」とある。明治12年春頃に開拓使函館支庁の「雇」となり、同年10月に免職となるまで、ベルリン漁業博覧会への開拓使の出品関係の「図画取調」に携わった。その他の画業としては、明治15年と17年の内国絵画共進会に南宗派および南北合法で出品したことが確認される。⑯上田雪渓(沢田雪渓)弘化元年(1844)〜?開拓使に採用時は「東京府士族三井良忠附籍」。山水人物画を藤江雲峨、花鳥画を吉沢善庵(北宗派の吉沢雪庵か)に学び、文久年間には「京坂及ヒ美濃尾張相模武藏常陸ヲ遊歴」したという。維新後は、東京府に十等属として在勤している。また、明〔ママ〕治9年(1876)8月刊行の『東京書画人名一覧』に「画 サクマ丁 上田雲蹊」と名前が確認できる。開拓使には、沼田正之の後任として、明治12年5月に月俸20円の御用係で雇われ、札幌本庁民事局勧業課と地理課を兼任する「画工」となった。勧業課では開拓使の養蚕事業に関わる図画制作などに携わっていることがわかる。その後、明治13年2月には「製図類目下差迫リ候モノ尠カラス」として地理課の専任となった。明治14年2月には辞職して、一旦東京に戻っている。開拓使の廃止後、明治15年に函館県の御用係に採用されて再び渡道したが、この頃に姓を上田から沢田へと改めたと考えられる。函館県でもやはり「画工」として「管内地理、草木禽鳥毛獣器具」などの図画制作に携わった。また、函館県在職中、明治15年と17年の内国絵画共進会に北宗派で出品したほか、函館在住もしくは函館へ来遊した文人と交友を重ねたことが『函館新聞』の記事から窺える。明治20年に帰京した後の画業は明らかではないが、明治23年12月から明治26年12月にかけて『風俗画報』に主にアイヌを題材とした挿図6点を寄せている。〔ママ〕
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