―103―⑰疋田敬蔵 嘉永4年(1851)〜大正3年(1914)京都生まれで、開拓使に採用時は「東京府平民」。明治5年(1872)から9年にかけて横山松三郎から鉛筆画と油画を学び、明治9年には工部美術学校に入学した。明治11年には山本芳翠の後任として玄々堂で「青年彫刻部」の指導もしている。開拓使には、狩野昭信の後任として、明治12年5月に月俸20円の御用係で雇われ、札幌本庁民事局勧業課と物産局製煉課を兼任する「画工」となり、明治14年8月まで在勤した。在勤中、第2回内国勧業博覧会に2点の油画を出品したほか、《開拓使紡織場》(北海道開拓記念館所蔵、油画)などを描いている。その後、明治17年からは京都府画学校に出仕し、小山三造、田村宗立らと京都画壇で活動した。明治23年に画学校を退職した後は印刷業を営んだのではないかとも推定されている。また、明治31年には明治美術会創立十年紀念展に出品している。⑱下島長政 安政5年(1858)〜明治13年(1880)開拓使に採用時は「東京府士族」。当時、東京出張所勧業課仮博物場係に雇われていた唯一人の「画工」で「当節絵図并写生等御用多」であった牧野数江の仕事を補佐して「当場植付ノ洋種草花并北海道植物類共写生」を行うために、明治12年7月に日給40銭で「一時御雇」された。牧野の門弟かもしれない。在職中の翌年11月に病死している。⑲松田柳亭 生没年不詳開拓使に採用時は「東京府士族」。文久元年(1861)版の『広益諸家人名録』には「画 柳亭 名利貞 白山御薬園前/松田称次郎」、明治9年(1876)8月刊行の『東京書画人名一覧』には「画 中オカチ丁三 松田柳亭」などと名前が確認できる。開拓使には、根室支庁へ明治12年7月から10月にかけて月俸20円の御用係として雇われて、ベルリン漁業博覧会への開拓使の出品関係の「図画」制作に携わった。明治14年の第2回内国勧業博覧会への出品のほか、翌年の第1回内国絵画共進会には南宗派で出品していることが確認される。⑳望月学 嘉永元年(1848)〜大正4年(1915)「大坂ノ人平野浄恵ノ二男」として生まれ、開拓使に採用時は「東京府浅草区北清嶋町廿七番地平民」。号は小蟹、後に金鳳と改めた。森二鳳に円山派、西山完瑛に四条派を学ぶ。明治7年(1874)には内務省測量司が募集した生徒となり製図法を学ん
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