7黒野雄繁南 天保9年(1838)〜?8岩崎主馬 元治元年(1864)〜?―104―だ。「維新後書画ノ衰微セル為メ糊口モ容易ナラサレハ遂ニ之カ募リニ応シ」たという。その後、内務省地理局「一級写図生」(明治10年)などを務めた。開拓使には、明治12年10月に月俸20円の御用係として雇われ、札幌本庁民事局地理課と勧業課を兼任する「画工」となった。地理課では「札幌郡官林図」(明治14年)などの製図事業に関わり、勧業課では報告係に属して「禽獣魚介穀菜果卉ノ類及ヒ牧場田園ノ地形屋舎器械ノ装置等凡ソ他日ノ参照ニ供スヘキモノハ之ヲ図写シ報告或ハ考証ニ供ス」る仕事に携わった。開拓使の廃止後も、札幌県、北海道庁で主に製図技手として在勤し、明治23年頃に辞職して上京している。札幌県と北海道庁に在勤中、明治15年と17年の内国絵画共進会、明治23年の第3回内国勧業博覧会などへの出品、龍池会への入会(明治17年4月)が確認されるが、上京後、本格的に画家としての道を歩み始めたと考えられる。明治30年には日本画会の創設に関わり、また、明治43年には文部省美術審査委員にも任命されている。開拓使に採用時は「静岡県遠江国掛川士族」。号は玉斎、後に錦谷と改めた。嘉永3年(1850)から画を菊池容斎門下の小磯前雪窓に学んでいる。開拓使には、望月同様、明治12年(1879)10月に月俸20円の御用係として採用され、札幌本庁物産局博物課に在勤して「動物写生」などに携わった。また、明治14年の明治天皇北海道巡幸の際には「牛若丸夜行ノ画」を「叡覧ニ供」したという。開拓使の廃止後は、札幌県勧業課の御用係に転任した。札幌県在職中、明治15年と17年の内国絵画共進会に土佐派で出品している。号・s斎。画を谷文晁門下の野村高明(号・文紹)に学び、明治17年(1884)以前には「遠江国ヲ遊歴」している。開拓使には東京出張所に明治14年2月に雇われた。同年3月から始まった第2回内国勧業博覧会への開拓使の出品関係の仕事に「一時雇」的に携わったと考えられる。その他の画業としては、「東京府」から、明治15年と17年の内国絵画共進会に南宗派で出品したほか、明治23年の第3回内国勧業博覧会への出品も確認される。3 おわりに管見の限り、以上の22人が開拓使に「画工」として雇われた人々である。狩野昭信、
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