鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
114/535

注主な先行研究として、北澤憲昭『眼の神殿』美術出版社、1989年、木下直之『美術という見世物 油絵茶屋の時代』平凡社、1993年、佐藤道信『明治国家と近代美術―美の政治学―』吉川弘文館、1999年、などを参照した。 『第二回内国絵画共進会出品人略譜』農商務省博覧会掛、1884年。しかし、この共進会には、後述する開拓使の「画工」22人中8人の出品が確認されるが、川口、沼田、望月、岩崎の4人はその経歴に官庁での在職を書き上げていないので、実態はもう少し高い割合になると考えられる。■高倉新一郎『挿絵に拾う北海道史』北海道出版企画センター、1987年■小野規矩夫「開拓使の絵師たち」『赤れんが』第72号、1982年、21〜24頁■『北海道大学農学部博物館の絵画―博物画・風景画・アイヌ絵・洋画―』北海道大学文学研究科平成12年度プロジェクト研究報告書、2001年、加藤克「ブラキストン標本と絵画資料」、田島達也「ブラキストン標本の鳥類図について」、今村信隆「開拓使の画工 牧野数江について」(以上、『北大植物園研究紀要』第3号、2003年)―105―望月学のように美術史のなかで比較的名前が知られている画家もいれば、いまでは全く忘れられた画家もいる。東京出張所に雇われた人々はもちろんのこと、札幌本庁、函館支庁、根室支庁に在勤した人々についても、東京在住であった画家が大多数を占めていることが特徴である。また、戊辰戦争で敗れた盛岡藩と会津藩の出身者が4人いることも注目される。いずれも、近代初期の北海道をめぐる政治的・文化的状況を反映していると考えられる。本稿では基礎的なデータの整理に主眼を置いたために具体的な考察には及ばなかったが、上記の略伝からは、ある時期を「画工」として政府系機関に在職しながら、当該期の社会にさまざまな形で対応しようとした「画家」の姿が垣間見えたのではないだろうか。今後は、個々の画業や伝記をさらに掘り下げていくなかで、それぞれの画家をより深く、当該期の社会に位置付けていく必要があると考えている。また、開拓使において産業技術として必要とされた「絵画」の意味についても、さらに掘り下げていきたい。

元のページ  ../index.html#114

このブックを見る