(1914/39、40、43、72、1915/100、242)、第二に、中国の漢詩に基づく独訳を作品に引用した文字絵(1916/20、22、23、24、25、26)、第三にミニアチュール(1916/7、8、15、18、19)である。そしてこれら3つの作品群について、北アフリカの地で実際に描かれた、ないしそれと直接に結びつく鮮明な記憶から生まれた1914年のチュニジア水彩画を、オリエントの体験と記憶が媒介する画家のイメージ世界として(注17)、また、中国・南朝、梁の文人王僧孺(465−522)、および漢武帝(前157−87)の詩に着想を得た文字絵〔図5〕を東洋のイメージに連続するものと捉えるなら、一―112―見互いに無関係に見えるそれらの作品群は、先にみたヴェルマンの、文字通り「すべての時代と民族の美術史」が随所で示唆する、異なる「時代と文化」「言葉と絵」とを結ぶメディア=ミニアチュールに媒介され、必然的に一つの地平に併置されていると言え、見方を変えれば、こうした時空横断的で跳躍的なイメージのネットワークこそクレーにおけるミニアチュール成立の重要な揺籃に相違ない(注18)。3 表現主義の地平におけるミニアチュール:クレーとマルク一方、これら三つの作品群に属さず、その間に挿入され、上述のイメージ・ネットワークをさらに複雑に重層化している作品を看過するわけにはゆかない。出品番号8として、この時初めて公の場に展示された《ひどく攻め立てられる都市ピンツの光景》(1915/187)〔図6〕はそうした一点である。黒の水彩で描かれた画面には架空の都市を示唆するPINZの文字、旗の立った城らしき建物群、背景に山脈などが見え、画面中央の眼らしきモチーフへと向かって突き刺してくる黒い矢印と逆に外へと放出する矢印とが、混沌と破壊に曝される黙示録的な都市風景を強く印象づけている。件のシュトゥルム画廊展のちょうど一年前、1916年3月4日にヴェルダンで戦死した画家フランツ・マルク(1880−1916)とクレーとの、殊にこの水彩画の制作された1915年における戦争をめぐる緊迫した葛藤と、それに深く関与する幾点かの作品を想起させずにはおかない作品である。マルクが残した全32冊の画帖の最後の一冊、いわゆる『戦場のスケッチブック』は、1915年3月17日付けで戦地から妻に宛てた書簡中にその着手が伝えられる画帖であり、中に描かれた一点《戦闘》〔図7〕は、彼の戦前の大作《動物の運命》(1913)〔図8〕への呼応が指摘される素描である。同じ書簡の冒頭、美術蒐集家ベルンハルト・ケーラー(1849−1927)から戦地に送られてきたシュトルム画廊製絵葉書に印刷された《動物の運命》を目にしたマルクが、この絵が「戦争を予感しているようで、ぞっとし、心を打つ」と記していることからも、同画帖成立期の両者の関連性には説
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