―121―形」に対する返礼とするため、東京と京都の人形製作者組合が審査して50体の人形を選んだことも、製作者たちの競争意識を刺激した。その後、後述する白沢会をはじめ、人形製作の研究を旨とする団体がいくつも結成されるようになった。一方で、大正末のフランス人形の紹介などをきっかけとして、それ以前から職業的でない人形製作が試みられるようになっており、そうしたアマチュアの団体もこのころ、続々と発表の機会を持つようになっていた。昭和10年に帝展改組の動きが起こると、西沢笛畝、山田徳兵衛らが中心となって7月、帝展第四部進出期成会を組織した。西沢、山田はともに人形の実作家ではない。西沢は日本画家でありまた、人形・玩具の蒐集家として著名な人物、山田は浅草橋の人形問屋「吉徳」の十代目店主でありまた名著「日本人形史」を著した研究者でもあった。人形の社会的な地位が向上することを願っていたふたりは、この機会に帝展に人形を入選させるため、各方面に働きかける一方、人形製作者たちの奮起を促したのであった。しかし、こうした動きに必ずしも全面的に賛同しない人物もいた。昭和10年12月に「人形の帝展進出厳正批判号」として人形専門誌『人形人』を創刊した有坂与太郎である。同誌上には、人形に関係するか否かを問わず、多数の人々の賛否が寄せられている。彼らの多岐にわたる意見を分析することによって、当時、人形と帝展、あるいは「美術」制度との間にどのような齟齬が感じられていたかを知ることができる。有坂は、「人形人」を創刊する前には「郷土玩具」誌を主宰していた。同誌は、既存の伝統的な郷土玩具の研究を振興する一方で、「創生玩具」と称して、さまざまな地方のローカル・カラーを表わした手工品を新たにデザインし、特産品としようとする運動を行っていた。発想としては山本鼎による農民美術運動にかなり近似しているが、もちろん異なる点もある。有坂自身は農民美術運動にシンパシーを持ちながらも、それが失敗であるという立場をとっていた。造ろうとしているものがいかにも生活実感を伴わないこと、生産過剰に陥り、あきられてしまったことがその根拠であった。有坂は、人形芸術運動に伴って作家の意識、地位が向上することを喜んではいたが、同時に高級芸術化して生活実感を失ってしまうことを何よりも危惧していたのではないだろうか。専門審査員の不在帝展進出に際し、『人形人』誌上に挙げられた不安材料として最も目立っていたの
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