―122―は、人形独特の技術や美意識が、第四部の鑑審査において認められるのかどうか、という問題であった。技術的な面では、胡粉の取り扱い技術が焦点となった。伝統的な雛人形や御所人形の制作では、胡粉が重要な役割を果たす。単なる仕上げのための塗料ではなく、下塗り、中塗りと厚く塗り重ねてゆく過程で、なめらかな肌を準備するとともに、盛り上げという独特の技法によって、鼻筋など微妙な凹凸を決定しているのである。人形制作の技術の中でも胡粉の扱いは最も重要でかつ難しく、技術の優劣は胡粉の扱いの巧拙によって決定されるはずである。しかし、それを眼で判断するのは、人形業界の専門家でなければさらに困難と考えられた。鑑審査は各部の会員が行うことになっており、当時第四部の会員は金工の香取秀真、津田信夫、清水亀蔵、陶芸の板谷波山、清水六兵衛、富本憲吉、漆芸の赤塚自徳の7名であった(注6)。昭和11年の改組帝展には、鹿児島寿蔵《黄葉》(紙塑)、野口光彦《村童》(御所)、野口明豊《幼女》(衣裳)、羽仁春水《仕舞高砂》、平田郷陽《桜梅の少将》(衣裳)、堀柳女《文殻》(衣裳)の6点が入選した。このうち、堀柳女のみがいわゆるアマチュア出身者であった。堀の作品《文殻》は空間を意識した独特の絵画的な表現をとっており、技術的な完成度を見せるものではなかった。そのため、一部の関係者からは理解を得られなかった(注7)が、批判を受けるというほどではなかった。審査員の見識を疑うとして有坂が批判を加えたのは、鹿児島寿蔵の作品であった。といっても、必ずしも作品そのものに対する批判ではない。原因は、3点で一組として搬入した当該作品のうち1点がなぜか落選し、他の2点のみが展示されたことについてであった。また、その年の秋に行われた第一回新文展(鑑査展)には、久保佐四郎《貫之》、佐野光輝《冬》、椎名静枝《歌集》、高浜かの子《虫の音》(木目込)、平田郷陽《母と子》、堀柳女《観衆》の6点が選ばれた。アマチュアとしても無名だった椎名静枝の作品が入選したことは、関係者に衝撃をもって迎えられた(注8)。結局、文展の審査基準と人形関係者の意識との間には実際に齟齬があったようである。そうしたなか、文展の環境に適応し、人気作家となっていたのが、平田郷陽、鹿児島寿蔵、堀柳女らであった。平田郷陽の写実表現から理想美への変化については是澤氏の論考を参照されたい。鹿児島寿蔵のもちいる技術は、独自に開発した「紙塑」といわれる和紙を用いた一種の紙粘土である。できあがると堅く、落としても壊れない堅牢さをもち、しかも色
元のページ ../index.html#131