鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―123―紙などをつかって鮮やかな色彩表現ができる。もともと、工芸美術として受け入れられやすい要素をもっていたといえるだろう。堀柳女は、大正期に竹久夢二のサロンに集って美意識を磨いた「どんたく社」の出身である。当時の堀の作風は、衣裳とする裂地の取り合わせや、あるいは、ちょうど台を舞台に見立てたような演劇性とでもいうべき、空間構成の妙を見せるものであったようだ。人形の技術面を極めようとした多くの職業的作家の出品に混じって、それは審査員にとって斬新なものに見えたかもしれない。入選は本人すら予想外のことであった(注9)。第四部の純粋美術志向美術評論家・田沢田軒は、純正美術であろうとする帝展第四部のありかたが工芸美術として矛盾しており、いっぽう人形は帝展に進出しようとすまいと、すでに工芸美術として完成している、としたうえで、商工展へのより積極的な出品を人形製作家に勧めている。大正末から昭和初期にかけての工芸界には、高村豊周ら「无型」グループの活動に代表されるように、アール・デコや構成主義といった西洋の新思潮に影響を受けた、前衛的な作品があらわれていた。帝展第四部で評価されるためには、作品は造形的な効果をもっとも重視したため、道具としての実用性や、ある程度の量産が可能という工芸本来の特質からは、たしかに離れる傾向にあった。展覧会では、一つの作品で審査員や観客にアピールしなくてはならない。作者のもてる限りの技術を注ぎ込むため、また視覚的なインパクトを得るため、作品は大型化し、装飾過剰に陥りやすい。人形の純真さ、素朴さを愛する評者からは、人形が展覧会芸術となることで、本来の美質を失ってしまうのではないか、という危惧も提示された。作家主義(オリジナリティ)手工業として玩具としての人形や節句人形を製造していた人形業者の間では、効率化を図るために伝統的に分業制が行われていた。つまり、頭や手、玉眼、衣裳、金具などそれぞれのパーツをつくり、また組み立てて完成させる専門の職人がいたのである。主に問屋がとりまとめ役となったので、商品は問屋のブランドで売られた。人形芸術運動期には、こうした分業制が大きな問題とされた。鹿児島寿蔵は、当時の東京の人形界の風潮をみると、「実際一の作品は何処から何処までが其の人の手に

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