―124―よって作られたものかに迷ふし、随って十分な鑑賞を妨げられる場合が多い(注10)」と指摘している。ここには、美術作品から作家の感性、あるいは天才性を読み取ろうとする鑑賞のあり方、したがって作品は必ず作家個人の創作によらなければならない、とするオリジナリティ重視の芸術観が明確にあらわれている。こうした問題意識が鮮明になるにつれて、久保佐四郎の活動があらためて顕彰されるようになった。久保佐四郎は、初めて自作の人形に銘を入れたとされる人物である。修行を始めて一年で独立を余儀なくされた久保は、技術が未熟であったため業界の分業制の枠に入り込めず、しかたなく独力での人形制作を始めた。しかしそのフットワークの良さが、古玩具の修理や復刻をする技術家をもとめていた西沢仙湖(注11)ら古玩具蒐集家に重宝がられる要因となり、やがてオリジナルの人形に「佐四郎人形」と銘打って頒布会を催すまでになったのだった。昭和3年に、平田郷陽と岡本玉水を中心に、人形作家による研究・発表を目的とする団体の嚆矢として、白沢会が結成された。顧問の役割を果たした西沢笛畝(注12)の周旋により、久保をはじめ4名の人形作家が参加し、6名の団体となった。昭和5年、平田郷陽と久保の娘ぬいが結婚し、両者は義理の親子という関係を結ぶ。久保は昭和8年に還暦を迎え、このとき、記念の小冊子(注13)が発行されている。久保は白沢会同人の中でも飛び抜けた年長者で、会の精神的支柱ともいえる存在であった。若い同人たちは、久保の履歴に勇気づけられて、個性を発揮する人形作家として立つ自信を深めたのであったろう(注14)。装飾美人形の帝展進出に対する感想を求められた森口多里は、一般的な人形における人体把握の脆弱性を指摘した(注15)。人形芸術運動期には、たとえば山田徳兵衛が主催した「日本人形研究会」などで、プロ・アマチュアの作家に対して、人体の正確な把握を目指した講習会がさかんに行われた。講師には、東京美術学校で人体美学を講じた西田正秋や、東京高等工芸学校の畑正吉、寺畑助之丞といった彫刻家が招かれていた。こうした動きの一方で、たとえば斎藤五百枝のように、写実ばかりでなく人形には一種の装飾美が必要であることを指摘する声もあった(注16)。永続性帝展進出前夜というべき昭和10年12月2日夜、有坂宅に集まった人形作家たちは、
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