鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―126―「人形」の本質として、モニュメンタリティのネガ概念としてのエフェメラリティ(仮設性)を提示することができるだろう。「彫刻」が恒常的に造られるようになっても、少なくとも近代においては、彫刻の本る、という意見には全く賛成するが、「彫刻」という言葉のほうに、純粋芸術のイメージがより多く背負わされているように思われるので、しばらくその意味で「彫刻」の語を使用したい。「人形」がもし「彫刻」のネガ概念であるなら、「人形とは何か」を問うことはすなわち「彫刻とは何か」を問うことになる。ここで仮に「彫刻」の本質がモニュメンタリティ(記念碑性)であるとするならば、モニュメンタリティの具体的な内容としては、偉大さ、高雅さ、耐久性が挙げられる。このうち「偉大さ」とは、必ずしも規模の大きさを意味するものではない。ただし、記念碑として新たに制作されるものについては、規模の大きさも当然問題になる。市民革命を経て成立した西欧の国民国家や、それを手本とした日本の近代国家は、国民的一体性の自覚を永く保つために、文化財あるいは記念碑としてのモニュメントを必要とした。このような状況のもとで、日本語の「彫刻」という概念が形成されたことは、その内容に大きな影響をもたらした。すなわち、その表面に見える「彫り刻む」という技法上の定義とは別に、モニュメンタリティを備え、モニュメントとしての役割を果たしうることが、自明の要件となったのである。もちろん、近代の「彫刻」と呼ばれるものが、すべて記念碑として実際に機能したわけではない。しかし、特定の場所から切り離され、展覧会場にのみ居場所を得た質を語ろうとするときにモニュメンタリティは欠かせない要素として顧みられてきた。彩色の有無という問題についても、モニュメンタリティから考えることもできよう。古代ギリシアの彫刻が実は完成の当初には鮮やかな彩色を施されていたことは、現代人にとってあまり受け入れたくない事実である。それでもやはり白い大理石の地をむき出しにした姿にあこがれてしまうのは、風化という自然の営みに抗って存在し続けている人工物に、作意を超えた本質的な美を感じているからではないだろうか。和辻哲郎などに代表される、彩色のはげ落ち、あるいは毀損された姿をよしとする美意識は、それ以上の破壊を求めない限り、モニュメンタリティを志向したものといえる。また、後補部分を軽視し、オリジナルの姿に本質を見いだそうとする一般的な文化財修復の姿勢も、深層でこの意識に支配されているというべきである。

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