鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―130―いる(注1)。しかし、それでも自分の見解に自信がもてない場合―「予ガ目力ノ不所及」(『新増書目』内篇巻七下「v枳尼天神像」)場合―静山が頼りにしたのが住吉派であり、そこから分派した板谷派の絵師であった。詳細については後述するが、両派の絵師は静山の求めに応じ、作品の助言を行い、必要な場合は手控え用の模写をした。『新増書目』で確認できる住吉、板谷派の鑑定活動や模写に関する記事については表に抜粋した。以後、作品名の後に示すNo.はこの表によるものである。2)住吉、板谷派の絵師による絵画鑑定『新増書目』の中で、静山が絵画鑑定を依頼した住吉派の絵師としては、廣行(1755−1811)や廣尚(1781−1828)が挙げられる。住吉内記とのみ記された部分もあるが、住吉派の絵師は代々内記を称していることより、廣行か廣尚を指すものと思われる。板谷派の絵師としては、板谷桂意廣長(1760−1841)、板谷桂舟が挙げられる。桂舟を称するのは、板谷家初代廣當(1729−1797)と廣隆(1786−1841)であるが、『新増書目』の本格的な執筆が静山の致仕後、すなわち文化3年(1806)以降の可能性が高いため、ここでは廣隆を指すものと推測される。尚、「文殊菩薩像」(No.24)と「墨畫葡萄」(No.29)の鑑定には狩野洞益(生没年不詳)も加わっている。洞益とは板谷桂意の次男であり、後に狩野洞白(1771−1821)の養子となった人物であるため本論でも取り上げた。3)鑑定内容先述の通り、まず、静山は自分で作品についての情報を集め、所見を述べるが、情報が充分でない場合や自分の見解に自信がもてない場合、住吉派や板谷派の絵師に絵画の鑑定を依頼している。かれらは、この依頼に応じ、1)作者や制作年代の特定、2)作品の出所、3)画題や技法、4)作品に関するエピソード等についての説明を行っている。その一例として「静於鎌倉若宮法楽白拍子舞之圖」(No.12)の條を挙げる。静於鎌倉若宮法楽白拍子舞之圖 一幅此圖文政三年庚辰夏修験行智ガCニ依テ模写ス.(中略)○此畫住吉廣尚カ所Dハ.元和貞享ノアタリノ筆ニテ.此繪巻軸ノ斷物ニハ非ジ.雲ノ胡粉ノ彩法違フE.○又云若クハ二代目又兵衛ト云ハンカ.或ハヅツト古キ町繪ナランカ.(後略)ここで廣行は、本図が元和、貞享年間あたりに、糺河原の勧進能の法楽舞を見ながカタシロ称町繪者ナリ.或若ハ糺河原ノ勧進能ナドノ時ノ.法楽舞ノ形代ニ仍テ畫クカ.○又云

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