鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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然Rハ.其時世大抵所畫ノ諸公ト前後同時ス.x之Rハ.此諸公ノ影ハ.肖像ニメ.豪信ノ者E.然ラバ是官女ノ真容ナル者也」と述べ、描かれた内容が信用に足ることを強調―131―巻物の断巻ではないこと、雲の胡粉の彩色法が異なることを述べ、作者が二代目又兵衛か、それより古い町繪師であろうと推測している。この他にも、「文殊菩薩像」(No.24)の條では「古畫尤良ト」、「鬼子母神像」(No.26)の條では「畫上手トス」と、作品の質についてもコメントしており、また、「墨畫葡萄」(No.29)の條では、狩野益信がその画風について「漢畫ニ非ジ」と述べると、住吉内記が「然ラン」と答え、板谷桂舟は「我ガ流ニ非ズ.又漢畫ニ非ズ」と述べるなど、画風について論じ合うこともあったようである。さらに、制作過程についての見解もいくつかの作品で述べられている。例えば、「大臣影絵巻物」(No.15)を鑑定した住吉廣行は、作者を豪信と推定し、「豪信ハ信實朝臣右京権大夫ノ曾孫也.目撃スル所ニ成ル乎」と述べ、原本は実際に諸公を目撃した上で制作したと語っている。同様に、「官女図」(No.21)を鑑定した廣尚も、筆者を住吉如慶とした上で、京都在住の如慶は禁裏の画事に従事していたため、「正シク官嬪ヲ視テ.而其像ヲFセシしている。このように、静山は住吉派や板谷派の絵師から絵画に関する幅広い情報や見解を身近に聞き出していたのである。尚、この時の「文殊菩薩像」(No.24)、「如来荒神像」(No.25)、「v枳尼天神像」(No.40)、「立像不動尊同二童子像」(No.43)の鑑定控が東京芸術大学に(注2)、また、『新増書目』に記事は無いが、松浦史料博物館所蔵の「文殊菩薩并八童子像」(長崎県指定有形文化財)には、文政6年(1823)の廣尚の鑑記と天保8年(1837)の廣定の鑑記が作品と共に残されている。2 鑑定後の模写―「木筆三十六歌僊」・「狐草子」・「病草紙」の場合―静山は、住吉派や板谷派の絵師に鑑定させた後、ほとんどの場合、自ら模写したり、あるいは、両派の絵師に模写させて手控えとしている。その時の模写本として、松浦史料博物館には、「相撲之繪」(No.3)、「長門國阿弥陀寺源平合戦図」(No.10)、「畫師草子」(No.11)、「待賢門合戦絵詞」(No.13)、(以上、松浦静山模写)、「木筆三十六歌僊」(No.33)(住吉廣行模写)、「病草紙」(No.5)、「気違草紙」(No.30)、「狐の草子」(No.36)(以上、住吉内記模写)、「十界圖」(No.31)(板谷桂意模写)、「鳥羽僧正戯画」(No.35)(狩野洞益模写)、「清水寺畫榜大名行列圖」(No.39)(板谷伊三郎模写)、カタシロら、あるいはその形代を見ながら町絵師が描いたものと述べている。また、この絵は

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