「v枳尼天神像」(No.40)(板谷桂舟模写)が遺されている。―132―全ての模写本を本論で紹介するには紙数に限りがあるため、住吉、板谷派の絵師が模写した「木筆三十六歌僊」、「狐の草子」、「病草紙」の三点を取り上げ論述したい。1)「木筆三十六歌僊」(No.33)「木筆三十六歌僊」は、木筆という特殊な技法が用いられているため、「其奇巧目ヲ悦バシム」(『新増書目』内篇七上「木筆三十六歌僊」の條)と、静山が特に着目した作品である。本図は土佐光顕筆とされ、住吉廣行所蔵の模本を廣行自身に模写させている。本図の巻頭には、柴野栗山(1736−1807)が、木筆の由来、廣行が模写した経緯等について記した序文がある。これによれば、木筆とは木片を用いた飛白書という書体から派生し、後に絵画にも用いられるようになったが、その技法は途絶えて久しく、土佐、住吉家にも伝わっていないという。そこで、ある日、水戸府で秘蔵されていた原本を目にした廣行が「費数十日工模取.筆ニ必慎.毫髪無所失.」(同條)というものである。松浦史料博物館に遺る模本〔図1・2〕も、三十六歌仙の衣装を中心に、木片を用いた特殊な技法で描かれている。この技法は和歌が記された画中の色紙にも用いられており、本図は二度目の模写でありながら、丁寧に仕上げられている。2)「狐の草子」(No.36)住吉家に所蔵されていた「狐の草子」の模本を住吉内記が写したものである〔図3〕。周知の通り、この原本は足利義尚が所持していたとされる「狐草子絵巻」である(注3)。原本の巻末には、「土佐光信朝臣筆」とあり、「廣通」、「廣純」の極印が押されている。廣通とは住吉如慶(1599−1670)、廣純とは住吉具慶(1631−1705)を指す。松浦史料博物館の「狐の草子」巻末〔図4〕には、これらの落款、印章(ただし「廣純」印ではなく「廣澄」印とある)の写しの他に「此本圖者如慶以来先祖代々寶蔵也/住吉繪所」と記されており、本図は如慶の代より住吉家に伝来していたことが判明する。これは『倭錦』の「土佐光信狐草子/貫雄云曰.住吉家蔵.(後略)」とも符号している。同館の「狐の草子」で特に注目すべきは、巻の半ばに挿入された一紙〔図5〕である。ここには、「此一紙狩野探信カ本ニ仍テ補寫ス/但探信ノ本ハ其先探幽ノ所自寫/ニメ縮図ナリ/文政乙酉十月」とあり、欠落部分を狩野探信の模写本(原本は探幽の縮図)から補っていることがわかる。画面には、錫杖を持った二人の僧侶が描かれているが、原本第7紙目の詞書「わかきそうの しゃくちやうもちたるか 三四人はしりいりたり」に対応したものと考えられる。現在、この部分の同一図様を原本に見出
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