鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―133―すことはできないが、藤原守純による嘉永2年(1849)の模写本(早稲田大学図書館蔵)に確認できるため、このような模写本は流派の垣根を越えて広く流通していたことが推測される。特に幕府の御用絵師であった狩野派と住吉派は制作活動を共にすることも多く、ある程度の絵画情報を共有していたと考えられる。3)「病草紙」(No.5)題名には「病草紙」とあるが、関戸家伝来本を原本とするものとは異なり、異疾之圖と呼ばれるものである(注4)。異疾之圖の原本は現存していないが、佐野みどり氏により、為恭本、東京國立博物館本、松井本、東京芸術大学甲本、探幽本、晴川本、東京芸術大学乙本、大鳥本などの模写本が確認されており(注5)、本図もその一例に加えることができる。『新増書目』の「病草紙」の條には、「所圖三十五種」とあるが、本図は三十二場面で構成されている。巻頭には「病草紙 光長筆/出所不知/住吉内記筆」と記され〔図6〕、原本は(土佐)光長筆と伝えられている。これは前述の為恭本、松井本、東京芸術大学甲本、晴川本でも同様である。松浦史料博物館の模写本は、建物などの背景や男女の陰部を簡略化しているものの、他の諸本と比較しても写し崩しが少なく、主題となる人物の表現は丁寧である。また、「白」「コン」などの色名や、「ヤフレ」〔図7〕など、現状を表す書き込みも各所に散見できる。これらの三例はいずれも記録用の模写本であるが、手慣れた筆運びで丁寧に写し取られている。また、「木筆三十六歌僊」のように、一度途絶えた描法を再現しようとする試みや、「狐の草子」のように、補足を加えながら、後世に古画を伝えようとする試みが見られ、これらの模写本からは同派の真摯な学画姿勢がうかがえる。ところで、松浦家には、模写本以外の住吉、板谷派の作品が数点残る(注6)。例えば、「嵯峨天皇尊神像」(松浦史料博物館蔵)〔図8〕は、静山の嗣子熈(1791−1867)が住吉廣尚に依頼して制作させたものである(注7)。嵯峨天皇とは、松浦家が自らの祖として崇める天皇であるため、その制作を依頼しているということは、同家が住吉派を絵師としても高く評価していたことを物語っているだろう。また、松浦藩には平戸在住の御抱絵師片山家がいた。静山の時代は、舟水(−1858)や尚(昌)栄(−1859)が制作活動を行っているが、絵画鑑定を依頼したという記録は管見の限り無い。片山家が当主の肖像画を多く手掛けていることを考慮すれば、静山は依頼内容によって絵師を使い分けていたと推測される。

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