―134―『寛政重修諸家譜』など官撰の編纂事業も手掛けている。静山は定信のことを、政治3 静山が住吉、板谷派に鑑定依頼した理由―考証的研究態度の流行と松平定信文人サロンの人脈―これまでにも述べてきた通り、『新増書目』の絵画の條は、静山が画論書類を参考にしながら、不足分の情報を住吉派や板谷派に依頼して補っていた。これは、真贋の見極めを目的とした鑑定とは大きく異る。このような静山の態度は、江戸後期の「考証学」から派生した考証的研究態度の流行を背景として培われたものと考えられる(注8)。そもそも「考証学」とは、江戸後期の儒学の一派で「四書五経などの古典・古文書から証拠を引き、実証的に行うもの。」(注9)を指すが、当時編まれた『御実記』や諸国の風土記、史書、地理誌などでもこの手法は用いられている。本論で注目した『新増書目』も目録という形式をとりながら、考証的手法で編まれているといえよう。このような書籍を編纂するには、膨大な知識とその原典となる文献が必要であった。また、個人の知識量では限界があるため、知的ネットワークも形成されていく。その中心となったのが、松平定信(1610−72)の文人サロンである。周知の通り、松平定信は寛政の改革など幕政に手腕をふるう一方、『御実記』や面はもとより文化面でも深く傾倒していた。また、定信も長女蓁子を静山の嗣子熈に嫁がせた縁もあり、静山のことを目にかけていた。『甲子夜話』にも静山と定信の交流を示す記事が各所に散見できる(注10)。このような理由から、静山や熈は定信のサロンに出入りするようになる。このサロンに集まった主な人物に、儒学者で林家の当主となった林述齊(1768−1841)、述齊に師事し林家塾長となった佐藤一齊(1772−1859)、幕府の歌学方北村家を中興した北村季文(1778−1850)、幕臣で幕府の編纂事業に関わった屋代弘賢(1758−1841)、幕府の儒官柴野栗山(1736−1807)、定信の御抱絵師的役割を果たした谷文晁(1763−1841)などが挙げられる。かれらは、静山とも交友関係にあり、『甲子夜話』では、静山の知的アドバイザーとして頻繁に登場している。また、『新増書目』でも、谷文晁は住吉廣尚とともに「花鳥圖真蹟」(No.45)の鑑定を行ったり、林述齊は「清水寺画榜大名行列図」(No.39)や「大臣影絵巻物」(No.15)の画題について見解を述べるなど、かれらとの交流が指摘できる。この他、松平定信文人サロンと静山、熈父子との交流を示す例として、松浦家関連作品への着賛がある。例えば、住吉廣行模写「柿本人麿像」(松浦史料博物館蔵)では、その箱書から画面上部の色紙の和歌を松平定信が、下部の序文―画題となった
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